2020年8月28日金曜日

子どもを産むことについて

今日は反出生主義について考えていた(*1)。

私の見解として、子どもを作ることは倫理的悪だと思う。
1つの観点に、人生には苦痛が多いというのが挙げられる。楽しく遊んでいる時間が極めて速く過ぎ去るのに対して、苦痛に喘いでいる時間の進みはなんと遅いことだろう。以前親知らずの抜歯をしたのだが、あまりの痛みを前にして、一日千秋とはこのことかと思ったものだ(*2)。親知らずの抜歯でさえ涙が出るほど痛いのに、麻酔なしで交通事故にあったらどれほど痛いのか想像もつかない。死は万人に訪れるが、安らかな死を迎えられる人は一握りだ。交通事故、病気、犯罪など、生きることには様々な危険がつきまとう。子どもをこの世界に産み落とすということは、その子を強制的にそれらの危険に直面させるということだ。それはあまりに可哀想ではないか。
もう1つ、より重要で原理的な問題に、存在と非存在の非対称性がある。子供ができると、その子が不幸になる可能性が必然的に発生する。当然ながら幸福な人生を歩む可能性もあるのだが、この2つは対称なものではない。幸福な人生を歩めたはずの何かが、「私は生まれたかった。どうして産んでくれなかったのか」と親(*3)を問い詰めることはありえない。そんな何かはこの世界にそもそも存在しないからだ。一方で、この世に生まれてきた子どもが「私は生まれたくなかった。どうして私を産んだのか」と思うことはありえるだろう。そのような事態になったとき、誰が責任を取れるだろうか。金銭で解決することでも、謝れば済むことでもないのだ。時間を遡ってその子の存在自体を取り消すなんて、神でもなければ不可能である。責任の取れない行為を強行することが、倫理的悪でなければ何だろうか。

ただ、私のこの考えを反出生主義と呼ぶかどうかは定かではない。倫理的悪であることを踏まえて、それでもその悪を実行する自由はあると思うからだ。例えば重いものを持って大変そうに横断歩道を渡っている老人がいたら、助けてあげるのが善だろう。だが、別に老人を見捨てたところで非難されるいわれなどない。それと同じことである。
そもそも私とて別に子どもを作らないと決めているわけではないのだ。人が自分の子どもに会ってみたい、自分の子どもと一緒に暮らしてみたいと思う気持ちは理解しているつもりだし、私自身、自分の子どもがいたとしたらどんな人間に育つのだろうかと考えることもしばしばある。
子どもを産むのは親のエゴだ。産んでくれと頼んでから生まれてくる者はいないのだから、それは否定しようがない。だから、もし今後私が子どもを作るようなことがあったとすれば、それは私が倫理とエゴイズムを天秤にかけ、エゴイズムの方をとったということに他ならない。そのときは私のことをエゴイストと非難してもらって構わないが、妻子以外の誰に非難されようと、私は耳を貸さないだろう。

戦時中に「産めよ殖やせよ」というスローガンが掲げられたことが典型的だが、出産は社会的に奨励されてきた。誰も子どもを産まなくなると社会が破綻するからだ。だが、人は社会を維持するための道具ではない。社会を維持していくことよりも、生きている人それぞれが自分らしく幸せに暮らせることの方が大切である(*4)。
結果として人類が絶滅するのは少々名残惜しいかもしれないが、各人が自らの良心に従って行動し絶滅したのであれば仕方あるまい。むしろ、戦争や疫病、環境破壊などで滅亡するよりも余程よい結末だったと誇るべきことだろう。
人類はやがては滅ぶものだ。それが早いか遅いかに、さしたる意味などないのである。

(*1)noteで「反出生主義はやさしさの塊」という記事を読んだことがきっかけである。自分なりに考えてつらつらと記事を書いてみたのだが、元のnoteとあまり変わらない内容になってしまったような気がする。従ってオリジナリティーはあまりないかもしれない。
(*2)違う。
(*3)親ではない。
(*4)ただし、社会の維持に支障が出るほど人類が減ってしまう前に、どうやれば人類社会を穏やかに終わらせられるかという「撤退戦」を考えていく必要はある。

2020年8月2日日曜日