2021年7月20日火曜日

東大生に男子が多いのはオシッコが原因かもしれない

昨夜、ふと思った。
東大生に男子が多いのはオシッコが原因かもしれない。

東大生の女性比率はおよそ2割だ。日本最難関とされる大学の学生の男女比がこのように偏っていることは大きな問題であるとされ、その是正に向けて女子学生向けの家賃補助女子高校生向けの説明会など様々な施策が行われている。しかし、果たしてこれで十分なのだろうか?
現在、東大生の偏った男女比は家族が娘の社会進出を好まないなどの社会的要因によるものだと説明されることが多い。だが、この現象は社会的な要因が全てだとは考えにくい。男女の身体の構造的な違いも多分に影響しているはずだ。そうした違いの代表的な例がオシッコである。男性は女性と比べてより長い尿道を持つために、オシッコをより多く、より長く溜めることができる。東大生の男女比の問題を考えるにあたって、この事実を無視することはできないのではないか。
オシッコを溜める能力の高さは試験にあたって有利に働く。東大の入試問題は、言うまでもなく難しい。一問一問の難しさもさることながら、時間に対して問題量が多く、高い処理能力が要求される。受験生にとって解答時間は1分1秒でも惜しいものだが、東大の場合特にそれが顕著だ。東大受験生は試験中にトイレに行くための時間を持たない。
東大が課す難問は、受験生に対して多大な精神的負荷を与える。緊張するとオシッコをしたくなるのは誰もが経験的に知ることだ。受験生は究極の選択を迫られる。

オシッコをするか、しないかだ。

とはいえ、本当に試験中に席を立ってオシッコに行く人は少ない。恐らくみりあくらいのものだ。私の計算によれば、受験生の9割は試験中にオシッコを我慢している。しかし、オモラシの瀬戸際に立つ人間に、数学の難問が解けるだろうか?解けないに決まっている。膀胱も頭もオシッコでいっぱいの人が知性を有するわけがない。これは、胃袋を食べ物で満たすと頭の回転が鈍くなるのとほぼ同じ原理のことである。
この理論的考察を検証するためには、次のような実験をすればよい。高校生の集団を3つのグループにわける。それぞれA, B, Cとしよう。Aグループの生徒には普段通りに試験を解いてもらう。Bグループの生徒には一人一枚オムツを与え、「いつでもオシッコを漏らしてよい」と伝えた上で試験を解いてもらう。最後のCグループの生徒に関しては、パンツをカバンにしまってパンツを履かずに試験を解くようにしてもらう。このようにして同一内容の試験を解かせ、各グループ上位10%の生徒について点数に性差があるかを比較する。
ノーパンで試験に臨む人間が賢いとは到底思えないので、おそらくCグループの得点が一番低くなるだろう。だが、Cグループは実験に特に関係がないのでおいておく。問題はAとBの結果だ。もしBがAより高得点であり、かつ男女の得点差も縮まっていれば、私の説は正しいと立証されたことになる。

以上に述べたように、オシッコを溜める能力と入試の得点には深い関係があると予想される。点数の差は尿道の差だ。尿道は長いに越したことはない。長いものには巻かれろである。長芋にはまぐろである。一方で、オシッコをあまり溜めていると膀胱炎になるともいう。膀胱炎といえば、膀胱炎と等高線と孟浩然は語感が似ている。つまり、ゆめゆめミミズにオシッコをかけてはならないということだ。ミミズは漢字で蚯蚓と書く。虫に丘、虫に引でミミズである。ミミズは虫の世界のおかっぴきなのだろうか。おかっぴきがいた江戸時代では、オシッコは集められて肥料として役立てられていたそうだ。
オシッコも奥が深い。

2021年7月10日土曜日

忙しさ

今月6日に修士論文の審査会があった。自分の限界近くまで頑張って準備したため、終わった後は数日抜け殻のような状態になっていた。しかし、修論の内容を進展させて雑誌に論文を投稿するためにはやらねばならないことが山積しており、いつまでもぼんやりしているわけにはいかない。忙しさが少し緩和されるだけで、結局忙しいことに変わりはない。
しかし、一体どうして私はこんなに忙しいのだろうか。何回留年してもいいのならこんなに忙しくはなかったわけで、忙しいのは留年を回避したかったためということになる。留年すると学費も余計にかかる上、奨学金も打ち切られて一気に生活が苦しくなるのだ。就職活動にも響くだろう。まとめると、私が忙しいのは金銭的問題、つまり資本主義のせいということになる。
一応現在の日本には生活保護という制度があるが、実際の運用としては働く気がなくても生活していけるようにはなっていない。働かないとお金が足りなくなる。お金が足りなくなると何に困るかというと、第一は衣食住だ。こうして資本主義は衣食住を人質に取り、我々を労働へと向かわせる。ここで私が思うのが、こんなに皆が皆働く必要はあるのだろうか、資本主義は我々を労働させて一体どこへ向かおうとしているのか、ということである。

***

学部一年生の頃、微生物学の授業で寒天培地を使った微生物の培養について学んだ。微生物の数が少なく、コロニーに対して培地全体が十分に広い間は、微生物は指数的に増殖する。だが、この爆発的増殖はいつまでも続くわけではない。培地の広さや栄養の量には限界があり、コロニーの拡大はやがて止まる。
思うに、地球の人口もこのような力学で決まっているのだろう。すなわち、地球上にある住みやすい平地の広さや地球上で得られる食料の量には限界があり、その限界が地球の人口を決めている。いくら第二次産業や第三次産業が発達したとしても、人類には第一次産業の原理的限界という制約がある。そして、人類はこの制約の限界まで増え、今や地球を覆い尽くしている。
例えば、ハーバー=ボッシュ法の発明は農作物の収量の劇的な増大を実現し、人口の拡大をもたらした。このことは、人類の叡智の成果として誇らしげに語られる。しかし、この人口の拡大は本当に喜んでいいことだったのだろうか。食料が増えたなら、そうして増えた分だけ人口が増える。人口が増えれば、最初のうちは田畑を拡大して更に食料を増やせるかもしれない。ところが、人口が増えたからといって食料も線形に増えるわけではない。新しく開墾した土地は、以前からあった田畑よりもきっと条件が悪いはずだからだ。やがて食料の増加は人口の増加に追いつかなくなり、飢える人が出始める。人口の増加はこうして止まる。
限界まで産業が発展することは、資本主義の思し召しには叶うことだ。だが、それは人類を必ずしも幸福へと導かないだろう。少なくとも私は、飢えるような人を出してはいけない、そんな人を出すくらいなら初めからその人を産むべきではなかった、と考える。言い換えれば、農作物が増えても人口を増やさず、増えた農作物を皆で分け合って暮らすことができたなら、一人一人はもっと豊かに、そして幸福になれたのではないか、ということだ。
人口と産業規模が拡大することによるスケールメリットは存在し、それによって生まれた豊かさというものも勿論ある。社会がごく自然にスケールメリットを享受できるよう導く点が資本主義の利点だと言ってもいいだろう。しかし、資本主義が競争原理を通じて個々のプレイヤーに最適化を促す裏側で、人類に地球という制約が存在することは無視されてきた。昔話の老夫婦が柴刈りや洗濯をする程度の自然利用であれば、いくら自然を利用しても自然が回復してくれただろう。だが、人類の活動の規模が大きくなればなるほど、自然が自分を修復してくれるという仮定は成り立たなくなる。自分達の活動は地球全体で見れば微々たるものであり、資本主義の外側の世界からはいくらでも搾取できるはずだという誤った外挿が、公害を生み、環境問題を生み、動植物を絶滅ないし絶滅の危機へと追いやった。産業に使う資源は足りなくなり、限られた資源を巡って人類は戦争を繰り返した。
果たしてこれでよかったのだろうか。人類にはもっと別の道があったのではないか。

***

私は、資本主義がある意味で自然なシステムであることも、こうして根付いたシステムを捨てるのは難しいということも十分承知しているつもりだ。それに、共産主義に移行すれば万事解決というものでもない。私は、資本主義を今すぐやめろとまでは主張できない。私がここで主張したいのは、人類は資本主義の限界をせめて自覚すべきだということ、そして私に非課税の5億円を給付することで私の生活を保障し、私を忙しさから解放すべきだということ、この2点である。

2021年7月8日木曜日

量理

フォロワーの人とZoomで会話した。相手を仮にAさんとしよう。
A「普段3食自炊してるんですか」
私「そうやね。僕のインスタ見てみる?僕のおばあちゃんが職場で見せ回っているせいでおばあちゃんの職場で局所的に有名になっている、僕のインスタ」
A「意外と美味しそう。この前ハンバーグがボロボロになっていたってツイートしてたから、もっとひどいのかと」
私「あー、あの豆腐ハンバーグに豆腐入れすぎたせいで崩壊して鶏そぼろみたいになったやつ」
A「分量量らないんですか?」
私「量らんなあ。カンで材料入れてる。分量量るのってめんどくさくない?分量なんて量りたくないわ」
A「めんどくさいですけど、そこを含めて料理ですよ。料理の半分は計量です」
私「なるほど!リョウリって漢字で書くと半分は「リョウ」やもんな。リョウリって材料の料にことわりと書いて"料理"じゃなくて、本当は分量の量にことわりと書いて"量理"なんやね!深いな......」
A「......よく即興でそんな意味不明なこと言えますね」