2016年8月25日木曜日

読解力の重要性を示す1つの事例

確か、私が高校生2年生か3年生の頃の話(*1)だったと思う。
私が母と夕食を取っていたときの出来事であった。当時の私は「彼女いない歴=年齢」だった(*2)が、母はそれを常々問題視していた。そしてその日、母は私にもっと恋愛に取り組むよう要求してきたのだった。私ははぐらかしながら会話に応じていたが、私の女性に淡白な態度を前にして、母は私をゲイではないかと思い始めたようだ。そしてついには、「もしかして、あんたこっち(=オカマ)なんけ。それだけはやめてよ」と発言するに至った。
私は、この発言には複数の問題があると思った。第一に、同性愛者に対し差別的である。次に、私は自分を異性愛者として認識している。更に、この発言にはもう一点の問題があった。私はこの「もう一点の問題」に焦点を当て(*3)、だいたい次のような内容のことを言って(*4)返答した。

「ちょっと待ってほしい。今、「それだけはやめてよ」と言ったが、その命令は意味を為さない。なぜなら、「好き」という感情は第三者に「やめろ」と言われて「やめる」ことができるものではないからである。もし「やめる」ことができたならば、それはもはや「好き」とは言わないのではないか。それでも「やめる」ことができず、どうしてもその人のことを考えてしまう、そんな状態のことを「好き」と表現するのである。もちろん、求愛や結婚といった具体的行為ならば「やめる」ことができる。しかし、ゲイであることはそういった行為ではなく、その人の「好き」という感情によって定義されるものであろう。従って、もし私がゲイであると仮定しても、「ゲイである」ことは「やめる」ことができないのである。以上の議論により、「それだけはやめてよ」という今の発言は意味を為さないことが明らかとなった。」
以上の議論を聞いた母は、私をしばらくゲイだと誤解してしまった。なにぶん彼女がいない(*5)以上証拠を提出しようがない(*6)ので、この誤解を解くことは大変な苦労であった(*7)。

わざわざ言うまでもないことだと思うが、私の弁論のどの点をとっても私がゲイであるという結論は引き出されない。私は異性に対する恋愛感情から類推することによって論を組み立てているのである。センター試験か何かで私の発言が出題されたとして、「この主張の発言者はゲイだと考えられる」といった内容の選択肢があれば間違いなく誤答であろう。しかし母は誤答を選んでしまった。この事件は、「読解力の不足は、息子をゲイだと誤解する危険性を高める」という教訓をもたらしたのである。

(*1)「ある年のクリスマスプレゼントとして私がハタハタを求めたところ、クリスマスツリーの下に魚の入った発泡スチロールの箱が置かれていた。祖父がしばしば魚介類を注文していた業者と箱に記された業者が同じであったことから、私はサンタさんの正体が家族だったことに気づいた」というエピソードに並ぶものとして、ある友人はこの話を高く評価している。曰く、これらは私の人となりをよく表しているそうだ。
(*2)2016年8月25日0時現在においても「彼女いない歴=年齢」である。
(*3)私が「もう一点の問題」に焦点を当てたのは、それが論理上の問題であるからだ。「同性愛者に対し差別的である」はジェンダー学上の論点であり、また、「私は自分を異性愛者として認識している」は私個人がどういう人であるかに関する論点である。一方、第三の問題は純粋に論理上の問題であり、より普遍的で、より根源的な問題であると思われたのだ。
(*4)書き言葉として再構成する上で訛りを取り除いた結果、堅苦しい印象を与えるものとなってしまった。
(*5) 彼女がいないどころか、彼女という概念(=「彼女」とはどういう意味の言葉なのか)がよく分からない。いや、それどころか、「いない」という概念の意味もよく分からない。「いない」がわからないどころか、「いる」も分からない。なぜ自分はここにいるのか。何かが「ある」とはどういうことをいうのか。そもそもなぜこの世界には何かが「ある」のか。私は一体何を認識しているのか。彼女がいないどころか、私がいない可能性もあると思う。
(*6)尤も、彼女がいたところでバイセクシャルである可能性は残る。
(*7)「大変な苦労」になってしまったことには、私の将来の夢が科学者であることも災いしている。というのも、科学者を志す者として、私は物事を控えめに記述する傾向があるのである。例えば、断定は極力避け、分からないことはきちんと分からないと言う、といった具合である。この性質がある以上、「えっ、男の子を好きになるんけ?」と聞かれても、私は「少なくとも、過去に女性以外を好きになったことはない。しかし未来のことは分からない」と答えるより他にないのだ。私のこの返答は母の混乱を長引かせることとなった。