2019年11月4日月曜日

短編小説: 椅子とピアノのある小部屋

「ただいま。あー、今日も疲れた」
玄関のドアを開けながら、私は無人の部屋に向かってそう言った。東京の会社に就職したことをきっかけに、数年前から一人暮らしを続けている。気楽なのは確かだが、寂しくないと言ったら嘘になる。実際、返事をくれる人なんていないことはとうに分かりきっているのに、未だに「ただいま」と言い続けているのだ。
それにしてもくたびれた。自宅と職場を往復する単調な毎日には飽き飽きする。今は大体午後10時。残業をして、家に着いたらこんな時間である。早く風呂に入って寝なければ。そう考えた途端、職場に残してきた仕事のことを思い出して少し憂鬱になった。はあ、と深いため息を付きながら、スイッチを押して部屋の明かりを付けた。パッと部屋が明るくなる。その瞬間、私はある異変に気が付いた。

壁に一本のちくわが生えていた。

ちくわというのは、あの練り物のちくわである。両端は白いが、中央部はこんがりと焼かれて茶色い。一方の端は、重力に従ってだらりとやる気なさげに垂れている。これは一体どういうことなのだろう。どうしてちくわが生えているのだろう。ただただ困惑することしかできない。
恐る恐る触れてみた。私からの接触に対して、ちくわはぶよんとしたあの弾力をもって応答した。今度は強く引っ張ってみる。引っ張れば引っ張るほど、ちくわはゴムのように伸びていく。そして、手を離すと瞬く間に元のだらりとした形状に戻った。ちくわはちぎれない。次は包丁を使ってみる。一方の端を左手で持って、包丁をノコギリのようにゴシゴシと前後に動かす。だが、それでもちくわには傷一つ付かない。このちくわ、どうやら只者ではないらしい。いや、突然壁から生えてきた時点で只者ではないことくらい分かっていたのだが。
この壁からは、このままちくわが生えっぱなしなのだろうか。それは嫌だ。何が悲しくて、ちくわと同居しなければならないのか。生えるにしても、一体どうしてちくわなのか。ニンジンだとか、トナカイだとか、もっと他にあっただろう。ちくわというのは、なんだか馬鹿にされている感じがする。無駄にふにゃふにゃしやがって。悔しかったら、もっとシャンとしてみてはどうだ。そう悪態をつきながら、私はちくわが水平になるように端を手に持って軽く引っ張り、ちくわの形をシャンとさせた。まっすぐなちくわ。まっすぐな筒。まっすぐな穴。そう、まっすぐ。......そういえば、この穴の向こうはどうなっているのだろうか。私はしゃがみこんで、穴を目に当てて覗き込んでみることにした。

ちくわの中は望遠鏡のようになっていた。奥には白い小部屋が見えた。小部屋には、黒い椅子と一台のピアノが置いてあった。椅子は便利な道具なので好きである。裁ちバサミと同じくらい好きである。ピアノも美しい音色を出してくれるので好きである。ピアノは糸切りバサミと同じくらい好きである。裁ちバサミも糸切りバサミも、裁縫をする上であったら便利な道具なのは同じである。
そんなことを考えていると、次第に小部屋の壁が泡立ってきた。どうやら壁がぐつぐつと沸騰しているらしい。泡はむくむくと膨らんでいく。吹きこぼれだ。吹きこぼれた泡はどんどん集まり、次第に人の形になっていった。刹那、泡がパチパチと弾けていったかと思うと、泡の中から白いワンピースを着た少女が現れた。少女は立ったままスーッと水平移動して、部屋を3周ほどした後に、黒い椅子の前までやって来た。椅子は、少女にとっては少々高すぎるように見えた。だが、少女が椅子に足を掛けようとしたその途端、椅子がズブズブと沈んだかと思うと、あっという間に少女にとって丁度いい高さにまで調整された。そして、少女はピアノに向かってぺたんと座った。ピアノも、椅子に合わせて少女の手に届く高さまでズブズブと沈んだ。
少女は、ピアノを楽しげに弾き始めた。どんな曲なのか気になるが、目の代わりに耳をちくわに押し当てても全く何も聞こえない。どうやら、目で感じ取るしかないようだ。目を凝らしてみると、小部屋にゆらゆらと陽炎が立っているのが見て取れた。陽炎はピアノの音に呼応するかのように振動している。あるいは、この陽炎はピアノの音色そのものなのかもしれない。陽炎を通して、ピアノの音が部屋に響き、壁を震わしている様子が見える。陽炎を見れば音が見える。ピアノの音が目から聞こえる。少女の演奏に聞き入っていると、いつの間にやら部屋全体がピアノの音に覆い尽くされていた。揺れる陽炎に少女の姿の輪郭は溶け、ワンピースの白色は椅子やピアノの黒色と混ざり合って灰色をなした。灰色は、部屋全体を揺蕩いつつも、ピアノの音が鳴るたびに共鳴して膨張した。灰色は膨れ、膨れ、ただひたすらに膨れ上がり、視界はすっかり灰色に染まった。もう、音の姿も見えてこない。一面の灰色だけがそこにあった。

ふと、頭の中に一つの英単語が思い浮かんだ。
「equilibrium、か」
独り言を言いながら、私は手に持っていたちくわから目を離した。覗き込んでいたちくわを、まじまじと見つめる。さっきまで、私は何にイライラしていたのだろう。別にちくわが壁にくっ付いていてもいいじゃないか。むしろ、それはそれで趣があっていいかもしれない。そう思ってちくわから手を離すと、ちくわはポトリと壁から剥がれ落ちた。
ああ、世の中思い通りにならないものである。でも、何だか嫌な気はしない。それどころか、今まで自分にのしかかっていた重い倦怠感が取れて、明日への活力が湧いてきたような感じがする。
そうだ、明日は飼っている馬を連れて行って、会社の前で流鏑馬をしよう。高速で動く侍から高速の矢が飛んでくるなんて、流鏑馬はなんとエキサイティングな競技なのだろう。想像するだけでわくわくする。そうと決まれば、早速押入れから弓矢を取り出してこなくては。それにしても、こんなに明日が楽しみな気持ちになるなんて、一体いつぶりのことだろうか。まるで童心に返ったようだ。

高揚感に包まれながら、私は床に落ちたちくわを摘み上げ、口に放り込んでもしゃもしゃと食べた。ちくわは、私の歯で簡単に噛み切ることができた。スケトウダラの芳醇な香りが、口の中にふわっと広がり、鼻からスッと抜けていった。(終わり)