2019年5月13日月曜日

初恋・下

前編: 「初恋・上」

私はなけなしのファッションセンスを振り絞って服を選び、肌にはクリームを塗って保湿をし、柄にもなく整髪料をつけて、できる限りのおしゃれをした。変でないだろうかと不安になり、何度も鏡で確認した。私は緊張とともに彼女に会った。彼女はスカートを履いていた。彼女のスカート姿を見るのは、一体いつ以来のことだろうか。珍しい。新鮮だ。可愛い。嬉しい。感情が私の頭を駆け巡った。同時に、私は告白への決意を新たにした。私は、彼女と手を繋いで帰りたいと強く思った。一体、彼女の手を握るとどんな感触がするのだろうか。私は赤面した。
ハーブ園は六甲山の上に作られており、山麓の市街地とはロープウェーで結ばれている。三宮で昼食にオムライスを食べてから、私と彼女はロープウェーの駅に向かった。ロープウェーは6人乗りで、2人きりの空間でこそなかったが、彼女の隣に座ることができたのは嬉しかった。心から好きな人の隣にいられるというのがこんなにも嬉しいことだとは、私はこの日に至るまで知らなかった。ロープウェーは、静かに広がるダム湖の姿を私の前に示して見せた。私の心は高揚感で満たされた。

私と彼女はロープウェーから降りた。ハーブ園からは、神戸の都市を一望できた。日差しが強く蒸し暑さのあった街の中とは対照的に、山の上では涼しい風が吹いていた。人が多く混んではいたが、開放感があって爽やかだった。
神戸を見下ろす写真を撮ってから、ハーブ園の中を見て回った。2人で小瓶に入った香り付きの精油を嗅いで(*1)、この香りが好きだなんだと言い合った。温室で植物を観察していると、彼女は食用ハーブに関する様々な体験を語ってくれた。そういえば、3月に会ったときも彼女は食べることが好きなのだと言っていた。彼女も楽しんでくれているようだった。
屋外ではネモフィラの花が見頃を迎えていた。私は花畑の写真を撮った。撮影した写真を見ると、当たり前だが、撮った花が写っていた。私は、彼女の写真を撮りたいとふと思った。私は彼女の方を向いた。彼女は花を眺めていた。恋人になれれば、彼女の写真もたくさん撮ることができるだろうか。それは、毎朝彼女の写真を見てから登校できるということか。それって、すごく、なんというか......。初夏の日差しを受けた頭が、熱を帯びてじりじりと痺れた。その熱が体全体へと伝わるとともに、胸が締め付けられて呼吸するのが苦しくなった。体の自由が効かなくなり、私はその場に立ち尽くした。この陶酔しきった頭では、何も考えることができない。もう、こうしてただ彼女を見ていることしかできない......。
不意に、彼女がこちらを向いた。私ははっとして、慌てて目を逸らした。そして、その一瞬で掻き集めた理性を動かして、何事もなかった風を装った。私は、いつの間にか彼女に見惚れていたのだった。
そうこうしているうちに、私と彼女はハーブ園の出口に着いた。次の目的地はあのダムだ。ハーブ園からダム湖への道はハイキングコースになっている。登山客とすれ違いながら、歩いてダム湖の方を目指した。

ダムに着いた。空は晴れ、水は静かで、向こうの山は青かった。ベンチが3つ並んでいて、そのうち一つには2人の登山客が座っていた。「休憩しようか」と私は言い、彼女と一緒にベンチに座った。緊張した。前日にあれだけ頭の中でシミュレートしたとはいえ、いざ告白するとなるとなかなか踏ん切りがつかなかった。私は、隣の2人がベンチを去って2人きりの空間ができたら告白しようと考えた。しかし、彼らは一向にベンチを去りそうな気配を見せなかった。私は、告白の機を伺いながら、ずっと風景を眺めていた。
彼女が、「そろそろ行く?」と私に尋ねた。まずい。今を逃したら、これ以上のチャンスは当分来ない。今、このタイミングで言わなければ。とりあえず、彼女をベンチから立たせるわけにはいかない。「待って。俺、言っておかなければならないことが......」最後まで言えない。
いや、私は何を恐れているのか。彼女だって、今日のデートを楽しんでいた。今までのメッセージからも、今日の誘いを楽しみにしている様子が伝わってきた。私は彼女と趣味が合う。私は垢抜けようと頑張った。それに、無力感に苛まれるあまり今まですっかり忘れていたが、私は地味にちょっと頭がいい。私が彼女と付き合えなくて、他の誰が彼女の恋人になれるというのか。彼女と同年代で、今は関西地方に住んでいて、火力発電所の見学に嬉々として行って、あの東大の卒業生。そんな男、私くらいのものだろう(*2)。彼女の目にも、私は悪くない物件として映っているに違いない。いける。多分、きっと、大丈夫なはずだ。私は自分を奮い立たせ、口を開いた。
「俺は......」色々考えているうちに、彼女の目を見ることを忘れていた。私は慌てて横を向いた。
「君のことが好き。だから俺と付き合ってほしい」
言い切った。
「あと、手紙がある。これも読んでくれ」
私は鞄からラブレターを取り出し、彼女の元へと手渡した。それは、読みやすくて丁寧な、手紙のあるべき姿とは程遠かった。手紙は、彼女に会うまでの電車で読み返したときの私の手に握られて、何重にもしわが寄っていた。過剰な筆圧で書かれた文字たちが、私の昂ぶった心を映し出すかのように、紙の上で激しく暴れていた。
彼女は答えた。「そうなんじゃないかなって、実はちょっと思ってた。勇気を出して言ってくれてありがとう。......嬉しい。でも私、人を好きになるってことが、まだあんまりよく分かってなくて。だからちょっと考えさせて。本当は、すぐにYesかNoか答えられればよかったんだけど。私がまだ子供だから、すぐには言えなくて。ごめんね。手紙は、帰ってから後で読むね。恥ずかしい、から」
返事は保留ということだった。私は答えた。
「いや、全然気にしなくていいよ。ゆっくり考えて。こちらこそ、戸惑わせてしまったようですまない」
「私ずっと、小学生のような気分で生きてきたから......。もう、大人なんだね」
私は私でピュアだったが、彼女も彼女でピュアだった。もう2人とも22歳だった。
木々の枝が風に揺れ、まだ青い葉っぱがはらはらと落ちた。 「じゃあ、行くか」そう言って、大きく伸びをしながら私は立った。私と彼女はダム湖のベンチを後にした(*3)

告白の後は、市街地の方まで降りていった。途中で布引の滝を見た。私と彼女は、まるで何事もなかったかのように、今までと変わらない調子でやりとりをした。そうして16時頃、神戸の市街地まで到着した。夕食にするには、まだ少し早い時間だった。私は、「どうしよう。北野の方にでも行ってみようか」と彼女に尋ねた。ところが、彼女が「ごめん、今日は晩御飯を作らなきゃいけないから、帰るね」と答えたため、そのまま帰ることになった。「今日は会ってくれてありがとう」そう言って駅で彼女と別れた。
私は楽観的だった。私の恋愛感情に気付きながらも今日会ってくれたということは、彼女も私に少なからず好意を持っているのだろう。あの様子なら返事が来るまでに一週間か一ヶ月かはかかるかもしれないが、最終的にはきっとOKしてもらえるはずだ。保留期間のうちにまた食事に誘ってデートしようか。そんなことを考えていた。
帰宅(*4)すると、私はどっと疲れを感じた。私はすぐに眠りに落ちた。

翌日の天気も晴れだった。私は窓からの日差しを受けて目を覚ました。体を動かすと、布団が軽く唇に当たった。私は彼女の頰に口付けすることを想像した。ああ、彼女と恋人になれたら、一体どんな毎日が待っているのだろうか。好き、好き、好き、好き......。私は幸せな空想にふけった。
昼過ぎになった。携帯電話を開くと、彼女からのメッセージが届いていた。まさか、もう返事が来たというのか。私はメッセージを開封した。それは、確かに告白の返事だった。私の目に、ある文字列が映った。

「答えはNoです」

しばらく、何が起こったのか分からなかった。空想世界に取り残された私の心が、その意味の理解を拒んでいた。意識を現実へと呼び戻しながら、私はもう一度文面を読んだ。そこには、私を異性として見ることはできないという旨が記されていた。それが彼女の「素直な気持ち」であり、一晩悩んだ末の「結論」だった。そこに何か覆りそうな余地を見出すことは、私にはできなかった。私は、自分の恋が実らなかったことを理解した。私は、「分かった」と言って、きちんと考えてくれたことへの感謝の言葉を述べた。告白を決意した時点で、これも想定のうちだった。しかし、どういうわけだか、涙が止まらなくなっていた。
私は、彼女と一緒に京都を歩いてみたかった。温泉旅行に行きたかった。工場見学に行きたかった。黒部ダムに行きたかった。街で服の選び合いをしたかった。本の貸し借りをしたかった。お菓子作り(*5)をしたかった。2人で作った料理を、2人で分けて食べたかった。電話を繋ぎっぱなしにして、服でも干しながらとりとめのない会話をしたかった。日常の中の些細な発見を、彼女と共有したかった。彼女に可愛いと言いたかった。彼女の写真を撮りたかった。彼女の顔を、飽きるまで眺めていたかった。それから、それから.......。
私は、今まで恋人がいなくてできなかったこと全部、彼女と一緒にしたかった。色々な場所で、素敵な思い出を数えきれないほどに作りたかった。彼女の手だって握りたかった。恋人繋ぎをしたかった。彼女と抱擁もしたかった。そして、彼女に口付けもしたかった。それら全てが、もう叶うことはないのだった。私は布団の中に閉じこもって、ただひたすらに泣き続けた。私は、失恋の痛みを初めて知った。
私は、彼女の恋人になれないにしても、彼女の友達でいたかった。2回のデートを経て、私は彼女と今までよりも親しくなれたと感じていた。だから、たとえ振られたにしても、今までよりももっと仲の良い友達になれるはずだと、ただ単純に、そう信じていた。私は、これからも友達として会ってよいかと彼女に尋ねた。彼女は、しばらく遠慮させてほしいと答えた。考えてみれば当然だった。そもそも、彼女は断ったことに申し訳なさを覚えているようだから、会ったら恐らく気まずくなる。また、2人きりで会えばそれはデートになってしまう。そのため共通の知人を交えて会う必要が出てくるのだが、私と彼女の間に何が起こったのかを彼らに悟られるわけにはいかない。お互い気を使うことだろう。告白を断るとき、彼女は私のことを「ただの友達」とさえ言ってくれていなかった。そうか、もう当分彼女と会うこともできないのか。私は再び、「分かった」と彼女に答えた。恐らくこれを言っても何も変わりはないだろうと思いつつ、「また気が変わったら連絡してくれ」と一言添えた。メッセージのやりとりはそこで途絶えた。その日は、外が暗くなるまで泣いていた。


さて、あれから時間が経ったためか、私は今ではかなり冷静さを取り戻すことができている。あるいは、文章を書くことで自分の感情を整理するという私の狙いが成功したのかもしれない。未練が残っていないと言えば嘘になるが、頭は次第に恋愛の酔いから醒めつつある。私が今も学問に関する無力感の後遺症に苦しめられていることを思うと、拒絶の返事という形ではっきりとした諦めの理由を与えてくれる恋愛は、学問と比べて随分私に優しくできているようである。
結果的には振られたわけだが、自分が信じる最善の場所とタイミングで告白を実行できたことに関しては高く評価してやってよいと思う。これを先延ばしにしていたら、恐らくもっとつらい結末になっていたに違いない。今でも、あの告白は正しい判断だったと思っている。彼女との関係にしても、嫌われてしまったわけではないはずだ。私は、いつかきっと気まずさを克服して友達関係を結び直せるだろうと信じている。
今回の一件で、自分が相手にまっすぐな恋愛感情を抱くことができる人間だと分かったのも大きな収穫だった。私は長い間恋愛感情が分からなかったし、その後も恋愛に対する屈折した考えのために自分の感情に素直に動くことができなかった。私に恋愛感情を与えてくれるほど素敵な人であった彼女と、私のデッドロック状態を解消してくれた友人に対して、私は深く感謝している。また、これは私の傲慢さなのかもしれないが、今後彼女に誰か他に好きな人ができたとして、もし私の告白がその一つのきっかけになれたとしたら、それは素敵なことだろうと私は思う。私は、彼女のおかげで自分のことをより深く知ることができた。私は彼女に恩がある。だから、私の行動が、「恋愛感情が分からない」と語っていた彼女にとって自分のセクシュアリティを探る糸口となり、彼女が彼女自身を知ることに繋がっていればいいなと祈っているのだ。
おおよそ立ち直ることができたのだが、問題は次の恋をどうするかだ。今回の失敗に関して、本当のところは分からない(*6)が、第一に考えられる原因としては友達としての関係が長期に及んでいたことが挙げられる。初めて出会ってから告白するまで、私はあまりに長い時間を要してしまった。私の恋は、一目惚れからは程遠い、じわじわと積み上がっていくものだった。燃え上がりにくいタイプと言ってもいい。多数派の恋愛パターンとは恐らく異なっているのであろう自分のこの特性を踏まえつつ、いかにして成就に繋げるかが今後の課題となってくる。

私に今後恋人ができるかどうかは分からない。しかし、私は自らの人生を幸福なものにするべく、これからも可能な限り努力を重ねていくつもりである。(「初恋」 終わり)


(*1)私が手で仰ぐようにして嗅ぐと、彼女は笑った。「危険かもしれないから」と言って、彼女も手で仰ぐようにして嗅いだ。
(*2)まあ「おく」がいるのであるが、今はそんなことを言っている場合ではない。大切な友人なので心苦しいところだが、彼のことは一時的に忘れておこう。ref.「2月の終わりに」(Voices Inside My Head)
(*3)結局、隣の2人は最初から最後までずっといた。待っていたらきりがなかった。
(*4)私はGWの間帰省していた。だから、この「帰宅」は実家への帰宅である。なお、親には同性の友人と会うのだと偽っていた。ref. 「服屋の店員」
(*5)ref. 「バレンタイン・チョコクッキー」
(*6)恋に浮かれてTwitterで麻薬麻薬と言いすぎたことが原因という可能性もある。

初恋・上

自らの思考や感情を整理するための方法を、私は書くこと以外に知らない。思い出も、悩み事も、思索したことも、ずっと文章に綴ってきた。だから今回も書くことにする。

私の恋の話をしよう(*1)


私が「彼女」(*2)に対する恋愛感情を自覚したのは、2017年の春のことだ。実のところ、私はそれまではっきりとした恋に落ちたことがなかった(*3)。私の中心にあったのは、常に学問のことだった。大学に入るまでは、私は勉強を心の底から楽しむことができていた。私は成績も良く、自分の将来は明るいと信じきっていた。だから、部活、課外活動、友達と過ごす時間など、勉強以外のことも全力で楽しむことができていた。たとえ恋人がいなくても世界は輝きで満ちていて、私の頭に恋愛が入り込む余地はなかった。
ところが、大学に入ると世界は一変した。私が入学した東京大学は、入試だけでなく入学後の授業までもがハイレベルだった。私は授業についていけないことに悩むようになった(*4)。私は、私なりに必死に勉強したつもりだったが、それによって得られたのは知的好奇心が充足されたという満足感ではなく、何もかもが分からないという無力感だった。世界から輝きが失われていき、暗がりの中で私は一抹の寂しさを覚えた。このとき、私は初めて恋人が欲しいと思った。私は恋愛に対して憧れを抱き、いつか素敵な人と出会って素敵な恋愛をしてみたいと願うようになった。
しかし、私はその気持ちを押し殺して勉強に励んだ。無力感に打ちひしがれていたとはいえ、自分が解きたい謎(*5)に挑まずに済ます人生というのは、私にとって考えられないことだった。私は、何もかも分からないと言っていてはダメだ、自分は"何か"を分からなければならないのだと考えた。私は焦燥感に駆られていた。まだ見ぬ誰かと出会うために使っている時間など、自分にはどこにも無いように思われた。
この判断は、勉強をより一層つらいものにするだけの結果に終わった。2017年初頭における私は、何をどう頑張ったところで自分の大学生活はどうすることもできないのだという諦念に支配されていた。

こうした状況下で、私の中で急速に存在感を増していたのが「彼女」であった。彼女は私のある知り合いの知り合いであり、積極的に出会いを増やそうと努力することなく接点を持つことができた貴重な異性の1人だった。彼女は家族思いで心優しく、実直な性格をしているように見受けられた。また、彼女は勉強熱心な努力家で、聡明かつ知的な人だと感じられた。美人だとの印象こそ受けなかったものの、媚びたところのない、素朴で自然な可愛さを持った人だと思った。私は、彼女と会って話が合うと感じたことをきっかけに、彼女の性格は私のタイプなのではないかと考え始めた。容姿よりも性格の相性を重視していた私にとって、彼女の温厚で誠実な性格はまさに求めていたものそのもののように感じられた。私はこうして彼女を意識し始めた。
それからほどなくして、私はまた彼女と会う機会を得ることができた。私は、彼女と会えたときには今まで感じたことのない喜びを覚え、彼女と別れたときには今まで感じたことのない寂しさを覚えた。彼女と会えるチャンスは、それほど多くはなかった。私は、彼女にまた会いたいとしきりに思うようになった。彼女に会うことを想像すると、歓喜と緊張がないまぜになったような、異質で奇妙な感覚が心の中に湧き上がった。私は、初めて覚えたこの感覚に対し、どのように向き合えばよいのか分からなかった。しかし、彼女の声、彼女の言葉、彼女の姿が頭にこびりついて離れなくなっていたのは確かだった。
この奇妙な感覚は、どのような勉強や遊びによっても薄められることがなかった。私は、彼女に対して友情以上の特別な感情を覚えていること、そして、この現象が単なる一過性のものではないことを認めざるを得なかった。そうして四六時中彼女のことを考えているうちに、「恋人が欲しい、交際するならどういう人がいいだろうか」と悩んでいた思考は、やがて「交際するなら彼女がいい、彼女が一番好ましい」というものへと変化した。2017年の春、私は彼女への恋愛感情を自覚した。その後も、私は彼女に時々会った。時には2人きりで会って大学の構内でじっくりと話したこともあった。しかし、恋愛という観点においては、2019年の春になるまで事態に特に進展はなかった。

私は、東京大学を卒業した後は京都大学の大学院へと入学することになっていた。私は京都での生活を憧憬しており、学生のうちに一度は京都に住んでみたいものだと考えていた(*6)。そこで昨年、京大の院試を受けようと決め、それに合格したのだった。この関西地方への引っ越しは、彼女と結ばれたいと思い始めた私にとってむしろ好都合なことだった。というのも、今年の初頭、彼女から受け取った年賀状から、彼女もこの春から関西で暮らし始めるようだと分かったのである。これを読んで、私は彼女に対するアプローチを始めようと心に決めた。
3月の上旬に京都への引っ越しを済ませ(*7)ると、私は彼女に声をかけた。ランチに誘ってみたところ、彼女は私と2人きりで会ってくれた。彼女と会うのは久しぶりだった。
このときの手応えは上々だった。会ったそのときから、わざわざおしゃれをして来てくれていることが感じ取れて、私は舞い上がった。アクセサリーはファッションに詳しい妹から借りてきたとのことだった。
会って10分もしないうちに、恋人はいるのかと彼女に尋ねられた。
「え、いや.......。いない、けど」
戸惑いとともに私は答えた。
「実は、私も」
自嘲とも安堵とも取れる笑みを浮かべながら、彼女は続けた。「22年間生きてきたけど、私、彼氏ができたこと一度もないんだ」
私は「俺も、誰かと付き合った経験はない」と返そうとしたが、言葉を発することができなかった。私と彼女の間に、気恥ずかしい空気が流れた。私も彼女も、この空気に対処する術を知らなかった。これまでも二人きりになったことは何度かあったが、お互い恋愛の話題を振ったことはただの一度もなかった。だから当然、このようなことを聞かれたのも初めてだった。私には、彼女から尋ねてきたことが意外に思えてならなかった。
ランチの店に入ってしばらく話していると、彼女は自分が話したかったことをもう一気に話してしまったと言った。それは、私に恋人がいるかどうかは真っ先に聞きたかったことという意味なのだろうか。私の心拍数は高くなった。これからの研究計画のことを話すと、彼女は「カッコいいと思う」と言ってくれた。私は、彼女に「カッコいい」と言われたことが嬉しくてならなかった。昼食の後は喫茶店に移動して、色々なことを話して盛り上がった。特に、東京証券取引所や火力発電所に行った話(*8)をしたところ、彼女は強い関心を示した。そうして、3月中に造幣局かどこかに一緒に行こうという話になった。是非行こう、後で具体的な場所や日付を調整しようと約束し、その日はそこで解散となった。
ここまでうまくいくとは思わなかった。恋人の有無を聞いてくるあたり、彼女も私のことを少しは意識してくれていそうである。さらに次のデートまで確定してしまった。これは押せばいけるのではないだろうか。私は可能性を感じた。その瞬間、私の恋心はかつてないほどに燃え上がった。私は、主に彼女の精神性に惹かれていて、容姿にはあまり魅力を感じていなかった。ところが、このとき、にわかに彼女の容姿が魅力的に感じられるようになった。同時に、彼女と手を繋ぎたい、彼女と抱擁をしたい、やがては彼女とキスまでもをしてみたい、と考えるようになった。私は、恋を覚えると人はどう変化するのかをその身を以て知った。私は恋愛の熱に浮かされていた(*9)
私は、自らの思考や感情を整理するための方法を、書くこと以外に知らなかった。思い出も、悩み事も、思索したことも、ずっと文章に綴ってきた。だから今回も書くことにしよう。そう言って、思いの丈を込めたラブレターまで書き始めるに至った(*10)
それはそれとして、問題は次のデートであった。造幣局の見学が第一候補であったが、予約で埋まっていたため他を探す必要があった。交通の便、見学内容、個人の見学を受け入れているかなどの観点から丸一日かけて検討を重ね、私はある食品工場の見学を提案した。ところが、彼女の都合が悪くなったということで、このデートの計画は流れてしまった。「また機会があれば」、と彼女は言った。脈があるようにもないようにも見える、玉虫色の言葉だった。「分かった」以上の返事はできず、メッセージのやりとりはここで一旦途切れることとなった。

4月になった。私は京都大学の学生となり、研究室に行ってPCのセットアップなど研究の準備を開始した。その裏で、彼女のことは常に気になっていた。私から好きになった以上はこのまま待っていてもどうしようもないわけで、私から押して機会を強引にでも作り出す以外の選択肢はなかった。ひとまず、新生活はどうかと彼女に話しかけることにした。彼女は最近の生活について述べた後、私の新生活について尋ねてくれた。どうにか会話を生み出すことができたのだが、どうやら彼女は忙しいようで、返事はあまりマメではなかった(*11)。私も私でどう返事しようかと毎回1日くらいかかって悩むものだから、非常にスローペースな会話となった。ともかくも、新生活の話から会話を繋げ、やっとの事でゴールデンウィークにデートする約束を取り付けることができた。私は一安心した。
大半の工場見学は、平日にしか行われていない。3月に提案した食品工場も例外ではなかった。彼女は工場以外ではダムに行きたがっていた。そこで関西のダムについて調べてみたのだが、規模の大きなダムはどれも山奥に作られていて、交通の便が悪かった。彼女にダムは気軽に行ける場所ではないようだと伝えたところ、行き先は結局私に一任するということになった。私が東京で遊んだ場所はというと、工場以外では庭園、裁判所、洋館、植物園(*12)といったところだった。関西におけるこれらの施設を検討し、私は次のデートの場所に神戸布引ハーブ園を選んだ。ここは神戸の定番デートスポットの一つである。この選択のキモは、近くにダムがある(*13)ということだ。このダムを発見したときは、なるほど神戸ならば山と交通の便を両立できるのかと膝を打った。ここにするしかないだろう。私は彼女に行き先を伝えた。
行き先を決めた私は、このデートで告白しようと決意した。私は、恋愛感情を抑えきれない、すぐにでも彼女に告白したいと感じていた。彼女は高嶺の花のようには見えなかった。事実、彼女は今まで誰かに告白されたことはないようだった。しかし、新生活で出会った他の男に取られてしまうリスクは十分にあると私は思った。それは告白して振られる以上に我慢のならないことだった。次で告白するというのはやや性急なようにも感じられたが、これを逃すと次がいつになってしまうか分からない。それに、ダムは彼女が行きたがっていた場所である。景色もきっと綺麗だろうし、人も多くはないだろう。告白する上で絶好のチャンスといえそうだ。これらを踏まえ、私は次のデートで告白するのがベストな選択であると判断した。

そうして告白の当日になった。空は青く晴れていた。(続く)


後編: 「初恋・下」

(*1)この「無KのK」版の記事は、2019年5月の初稿から全体の構成を見直し、より読みやすくなるよう編集を加えた新編集版である。最終更新日は2020/12/30。
(*2)三人称の代名詞である。以下では、「彼女」という言葉を「恋人」の意味では使用しない。「彼女」という言葉は、全てある特定の1人の女性を指している。なお、「彼女」が誰なのか分からないようにするために、この記事はわざとミスリードを誘うような記述を一部に含んでいる。
(*3)これは「読解力の重要性を示す1つの事例」における記述と矛盾するようだが、あの記事は背伸びして知ったかぶりで書いていたということである。
(*4)ref. 「Arduous Learning of English for a Science Student」など。
(*5)「生命とは何か」「生命現象は物理学の枠組みでどのように記述できるのだろうか」という謎である。
(*6)ref. 「私の院試体験(3)」
(*7)ref. 「3/5-3/12: 転居」。年始に彼女へのアプローチを決意してから春に開始するまで少し間が空いているのは、卒業研究と引っ越し準備のためである。
(*8)ref. 「日記: 東京証券取引所と水再生センターの見学」「横浜: 磯子火力発電所ほか」。しかし、まさか行きたい場所の趣味が合うとは思わなかった。無KのKに記事を書いたときは冗談のつもりだったが、デートスポットとして優れているというのもあながち間違いではないのかもしれない。
(*9)例えば、自分の服装や髪型が気になるようになった。 ツイートもややポエティックになった。彼女が言った「カッコいい」という言葉を取り出して何度も脳内再生しては何度も照れた。
(*10)ref. 「3/21」。当時も書いているように、これがなかなか異常な仕上がりだった。恥ずかしいため一生非公開とするつもりでいたが、気が変わった。以下に初稿を掲載しよう。
「私は君のことが好きである。その根拠として、例えば以下の事実を挙げることができる:
・君と会うことを思うと、喜びと緊張が混ざったような独特の高揚感を抱く。
・君という存在がまるで頭に焼き付けられたかのように感じられ、毎日君のことが気になってならない。
・君と手を繋ぎたいと感じる。
私は、君の実直な性格を尊敬している。初めは、君に対してのみ現れるこの異質で奇妙な感覚も、君に対する尊敬と友情を足し合わせたものだろうと思っていた。しかし、久しぶりに君と会い、それに伴って「奇妙な感覚」が己の中で激しく強められたのを、私は確かに感じ取った。ここに至り、私はこれが恋愛感情に他ならないことを確信した。
私は、初めて抱いたこの「奇妙な感覚」に対して未だに戸惑いを覚えている。この告白という判断についても、まだいくばくかのためらいがある。しかしそれでも、君のことを好きになってしまった以上、このことを伝えずに済ますという選択肢は私に残されていないように思われたのである。

私は君のことが好きである。従って、私は君と付き合いたい。この交際の申し出に対して取りうる返答としては、次の3つが考えられる。
i)承諾
君と付き合いたいとは言ったものの、私は過去に誰かと交際した経験があるわけではない。このため、交際といっても何をすれば良いのかは実のところ不明である。よって、この場合、まず最初に交際という言葉の具体的意味を考える必要があるのではないかと思われる。
ひとまず、私としては、メッセージのやり取りないし通話などの方法によって、定期的に君と接点を持つことを希望している。
ii)拒否
もし君が私を自分の恋人にはしたくないと思うのであれば、この交際の申し出を拒むことを躊躇しないでほしい。たとえ交際を拒まれたとしても、これからも君が良き友人であり続けてくれるのならば、私は嬉しい。
iii)保留
i,iiのどちらか一方を選択するには時間を要するかもしれない。私が君に対して恋愛感情を抱いていることを認識してもらえれば、当面はそれで十分である。判断するにあたって足りない情報があれば、体重、好物、年収、既往歴、名前(ふりがな)、アフリカ連合本部の所在地、人生の意味など、なんでも聞いてもらって構わない(**1)。答えられる範囲で答える。
長くなったが、要点は単純かつ明快だ。もう一度言おう、私は君のことが好きである。
(**1)インフォームド・コンセント。」
大真面目に書いていたはずが、筆が乗っておかしな文章になってしまった。こんなものを渡せるわけがない。結局、抜本的に書き直すことにした。
(*11)私はこれにやきもきした。ref.「4/5」
(*12)ref.「11/20: きらら展」「12/11 午前: 浜離宮」「12/11 午後」など。
(*13)五本松堰堤のこと。ref.「布引の滝 布引ダム(五本松堰堤)への行き方」(神戸市公式サイト)

2019年5月3日金曜日

服屋の店員

大型連休ということで、ここ数日は帰省して実家にいる。部屋で惰眠を貪っていると、服を買いに行かないか、と母親が声を掛けてきた。私はファッションに対する知識、センス、関心どれをとっても壊滅的に低水準であり、一人でユニクロ以外の服屋に買い物に行くことができない。そういうわけで、この歳になっても未だに母親と服を選んでいる(*1)のである。
服屋の難しいところは、服を物色していると店員が話しかけてくるところだ。服屋の店員は概して話術が巧みである。服を選ぶ基準を持ち合わせていない私は、話しかけられたら最後、店員の勧めるがままに服を買うことを余儀なくされてしまうのだ。そして今日もまた、服屋の店員に話しかけられた。
「何かお探しでしょうか」
「はい。暑くなってきましたので、初夏らしい爽やかなコーデをと思いまして」
「なるほど。どこかお出かけなどされるのですか?」
「お出かけ......。三宮の方で、博物館なんかに行くことはありますね」
「博物館ですか。ちなみに、どのような博物館なんですか?」
「え、えーっと......。この前行ったのは、麻酔......麻酔博物館っていうところです」
「え、麻酔、麻酔ですか?そういう......クスリとかがお好きなんですか」
「はい!!!」
「へえ......こう......科学......最新の科学技術に興味を持っていらっしゃるんですね。そういうことでしたら、こちらのボトムスにこちらのシャツを合わせてみるのがオススメです。カジュアルで......よく似合われるかと。試着されますか?」
「そうですか!はい、試着してみます!」

こうして見事に乗せられた私は、勧められるがままに四着の服を購入してしまった。帰り道、私は母に尋ねられた。
「あんたそういうの興味あったん」
「ああ、試着してみたら似合っている気がしたから」
「そうじゃなくて、麻酔に」
「あ......え......。うん、まあ、一応......」

(*1)現在私は22歳だ。彼女はいない。母親は今の私にとって最も身近な異性である。