2021年11月8日月曜日

道徳の教材を読んで考えよう!

文部科学省が作った道徳の教材がウェブで公開されていることを知った。そこで、フォロワーの人とこれを読み、道徳について学び考える配信を行ってみることにした。今回の教材は「違うんだよ、健司」である。

「終わり方がエモい」
「エモいね〜。いい話やった。三人の友情に重なる夏の大三角。エモい」
「でも「違うんだよ、健司。お節介なんかじゃないよ。なあ、そう思うだろう」ってちょっと言わせてるよね」
「確かに。この流れで「いや、お節介だ」なんて言いようがない」
「俺はやっぱ、「おい。耕平を誘ってG町に行かないか。盆踊りがすごいんだぜ」ってセリフが気になるなあ。「盆踊りがすごいんだぜ」って。男子中学生が同級生の友達を誘うセリフがこれ。こんな誘い方ある?」
「G町の盆踊り一回見てみたい」
「見てみたいね」
「BTSかも」
「めっちゃ激しくて」
「盆踊りから帰ってくる頃には踊り疲れていたみたいやけど、野球部の男子中学生を疲れさせるって相当な激しさよな」
「それをお年寄りが踊っとるんやから絶対面白いし見に行くしかない」
「でも、そうすると「いや、僕は......、無理だ」の意味が変わってくるな」
「体力的に無理ってこと!?」
「部活休んで授業中も居眠りするほど疲れているのも、踊りの練習をしていたから」
「あ、これそういう話やったんやな」
「でもこれで三人の友情が深まって、次からは自転車も丁寧に停めるようになることでしょう」
「うーん。みんなで話し合うと、一つの話でもいろんな側面が見えてくるなあ。いい道徳の勉強になった」

2021年11月7日日曜日

明朗快活

昨日から一つ悩んでいることがある。
土曜日の夜、私はふと「明朗快活になりたい」と思って、Twitterで「明朗快活になりたい」と呟いた。しかしよくよく考えてみると、この「明朗快活」という言葉自体あまり明朗で快活という感じがしない。本当に明朗かつ快活な人が「明朗快活」という言葉を使うだろうか。私が明朗快活な人の具体例を考えて最初に思いついたのはごちうさのココアだったが、ココアが「明朗快活」という言葉を発するシーンは見たことがない。おそらく今後も発さないだろう。そうすると、こうして「明朗快活」という言葉を発してしまった時点で、私は明朗快活になることができない、明朗快活人になる権利を失った、ということになるのではないか。これは困ったことだ。
そんなことに悩んでいるうちに日曜日の昼になってしまった。