2016年7月11日月曜日

成人に際して

成人した。今後は責任ある大人としての自覚を持って生きていきたい(*1)。

ここまでが本題で、以下は全て余談である。
2015年の駒場祭は多忙だった。サークルの企画で多くの仕事を任されていたからだ。そんな中でも、合間を縫って他の展示を見る時間を作り出すことができた。そこで私が向かった展示の一つが「駒場ビラ博」であった。
「駒場ビラ博」はビラ研究会というサークルが収集・研究したビラを解説(*2)と共に展示するという企画である。古い学生運動のビラなどは特徴的な字体・雰囲気を備えており面白いと感じていたため、この企画は前から気になっていたのだった。目論見通り古い学生運動のビラが展示されていたが、展示の中に私の度肝を抜いたビラがあった。トレンド研究会のビラだった。
トレンド研究会はかつて存在した東大のサークルで、新興宗教団体(テロ組織と言った方がよいかもしれない)の息がかかった組織であった。そのトレンド研究会は、1992年の駒場祭で教祖を呼んで講演会を開いたと聞いていた。しかしそのビラがまさか今も保管されているとは思わなかった。私が見たのは、保管されていたビラのコピーだった。そこには教祖の顔が描かれていた。
その後、ビラを展示していたサークルの方と会う機会があった。話してみると、PCの中にビラのスキャンデータを保有しているという。それを聞いた私は、データを送ってもらうよう頼んでそのスキャンデータを得ることに成功した。なぜそんなことを頼んだのか。ある友達の誕生日プレゼントとしてこれを贈るという企みを思いついたのだ。
彼とは中学校時代からの友人である。同じ教室で学んできた同学の志であり、「こころ」に出てくるセリフを暗記して「先生とK」ごっこをしたり、漢文でメールを送り合ったり、発表の際黒板に力強く板書していかに隣の教室に迷惑をかけられるか競い合ったりするほどの仲であった。長い付き合いなので彼の趣味もそれなりに把握しているつもりだ。まず、彼は戦国時代に造詣が深い。また、甘い物をこよなく愛している。さらに、女子大に入って喜ぶことも彼の楽しみである(*3)。そんな彼は、新興宗教をおもちゃにすることも好きであった。
宗教的なプレゼントはオリジナリティーがあって面白いだろう、そう私は考えた。特にビラは適している。印刷するだけでよいから、教祖の血などと違って格段に手に入りやすい。部屋に置いていても毒性は特にないため、VXガスや炭疽菌の培養地などと違って取り扱いが容易である。白装束をもらってもなかなか着ようという気にはなれないだろうが、ビラなら壁に飾ってポスターにすることができ、実用性も高い。実際、かつての彼の部屋にはアイドルのポスターが貼られており、気に入った人物のポスターを貼る習慣があることが推測できた。

そうと決まればやるべきことは印刷である。私のプリンターは壊れていたため、東大で印刷することにした。PCを立ち上げ、データを読み込み、プリント設定を確認し、プリンターのある部屋へ向かう。だが、印刷を注文する手前で、設定がモノクロになっていることが分かった。私はカラーで出したかったのだ。危うく10円損するところだった。PCの前に戻り、カラー設定になっていることを確かめてから、印刷室に再び行く。しかし、なおモノクロになったままだった。困った。そのままシステム相談員の人にどうすべきか伺ったところ、PCを見せてくれということになった。私は了承した。
ところが足を踏み出したその刹那、一つの事実に気がついた。このままPCのスリープを解除すると、画面に大々的に教祖の顔が表示されてしまう。この宗教が大好きなのは、私ではなく友人であるのに!画像を縮小する時間を稼ぐ方法はないだろうか。私は頭を素早く回転させながらPCの元へと歩いていった。しかし自然な言い訳は思いつかない。平成を装いつつスリープを解除し、大々的に教祖の顔をシステム相談員の方の眼前に示した。
果たして相談員の方は顔色一つ変えなかった。淡々と自分の仕事を済ませ、無口に持ち場へ戻っていってしまった。私は、なるほどこういうことは日常茶飯事なのだろうと納得した。プリンターが音を立て、教祖の顔が熱を帯びて印刷されて出てきた。カラー印刷には50円かかった。

友人はついこの前成人した。私は誕生日プレゼントを渡そうと思ったが、私の誕生日に会おう(*4)ということになった。私は、自分の誕生日に他人へ誕生日プレゼントを渡す羽目になった。彼には、予め「50円(*5)かけて得たプレゼント」と伝えておいたので、ほとんど期待をしていなかったはずだ。50円の割に大喜びしてくれたので、この企ては成功したといってよいだろう。


(*1)自覚は持ちたいが、できることなら責任は持ちたくない。「責任がある」という自覚があっても、責任を全うするとは限らないのである。本題部分は短いが、この短い文から私の繊細な心情を読み取ってほしい。
(*2)ふと思ったが、「解説」と「解脱」は似ている。
(*3)「女子大に入ることが楽しいのではない。女子大に入ってその非日常さにexcitedすることが楽しいのだ」とは彼の談である。
(*4)私は、結局成人するまで「不飲酒戒」を破らなかった。酒を飲むのはなんとなく怖いと思ったので、この友人と酒を飲むことにした。従って、会うのは私の誕生日である必要があった。
(*5)誕生日プレゼントはあげないか、あげても自作の問題などで10円程度しかかかっていないことが多かった。50円はお金をかけた方だろう。

2016年7月8日金曜日

如才の弁明(2)

前回の記事の続きである。「変人説」の根拠が果たして正当なのかどうか、順に検討していこう。今回は後半1/3ダースを扱う。


5. カラオケに行くとシューベルトの「魔王(Erlkönig)」を歌う(*1)。
私は最新の流行曲を知らないため、どうしても古い曲に偏ってしまいがちである。それにしたって「魔王」は古すぎだと思われるかもしれないが、「魔王」を選ぶのは「中学で学習するため多くの人が知っているだろう」との判断に基づいてのことである。歌詞もドイツ語で書かれているため、日本語(かせいぜい英語)の曲ばかりに偏りがちなカラオケに変化をもたせることもできる。このようにカラオケに好適な要素を備えた「魔王」が、なぜあまり人気でないのか私は不思議でならない。
曲自身の知名度は十分だと思われるが、カラオケに入っていると知られていないのかもしれない。あるいは人が死ぬ曲だからだろうか。もう少し人気が出れば「語り手・魔王・父・子」をそれぞれ別人が演じるという遊びも可能になる。普及に努めたいところだ。
なお、私はイタリア語選択のため、ドイツ語は解さない。先月ドイツ語の参考書を購入し、現在は鋭意背表紙を眺めているところである。ゲーテの詩の和訳は覚えた。

6. 一週間ほど京大生のふりをしてこっそり京大の授業に出席していた。
私は自由人であると思う。少なくともそうありたい(*2)。
さて、ご存知の通り京大は自由の学風で知られている。自由人たる私が、自由に憧れるのはある種の必然であろう。かくして私は京大を好きになった(*3)。
京大が好きなら、そこの授業を受けてみたいと思うのは自然な心理である。好きなアーティストがいれば、そのライブを見たくなるのと同じことだ(多分)。調べてみると、京大には教養教育の段階から「京都大学の歴史」「霊長類学」など独自の講義が開講されているようだ。一度受けてみたいと強く思った。
2015年入学の東大生は、2年前期の後半にかなり受ける授業が少なくなる(四学期制という妙な改革の結果だ)。このことから、京大の授業を受けるのに最適なのはこの2年の6月だと判断した。6月ならば、東大の授業を丸々一週間休んでも影響がかなり小さく抑えられる。2015年度入学者用のシステムは非常に不評だったようですぐに変えられてしまったが、京大の授業を受けたがる私のような学生にとっては非常に好都合だったわけだ。むしろどうして他の東大生が同様のことをして視野を広めないのか分からないくらいだが、あまり公に勧められた行為ではないため徹底した隠密行動をとっているのかもしれない。私だけ無用心にネットの世界に書いてしまって、とんだ間抜けである。自らのネットリテラシー向上に努めたい。
ともかく、私はこの千載一遇のチャンスを活かそうと、つてを頼って京大生に擬態していたわけだ。チャンスがあれば活かすのは人生の基本だろう。6月初頭にテストを終えた私は東京を出発し、一週間ほど滞在して帰った。知るカフェやカラオケの学割などでは学生証を示す必要があり、店員によっては驚きと困惑をもって私を迎えたが、ここに説明したような事情を知ればきっと納得してくれたに違いない。

7. スタバに行くときはビーカーを持ち込み、それにラテなどを入れてもらう。
下宿にビーカーがあるのは容量を量ることが可能な耐熱容器として便利なためである(*4)。スタバでは容器を持っていくと容器代を割り引いてくれる制度がある。下宿にある耐熱容器で最も液体物を入れて飲むのに適したものがビーカーだったため、それを使った。
折角ビーカーを使うのだからと、ラテをかき混ぜるのには薬さじ(*5)を使った。これはビーカーの醸し出す化学的な雰囲気を大切にする姿勢の表れである。
 化学的な雰囲気を大切にするあまり、一度白衣で入店してしまったこともあった。しかしこれは「白衣はスタバに入店する上で不適当」という知識が欠けていたためのこと、すなわち無知ゆえの誤りである。したがって、不適当との指摘を受けてからは実行していない。これも一応述べておくが、「無知ゆえの誤りを犯す」と「変人だ」は異なる概念である(*6)。例えば、日本の習俗を十分に知らなかったがために土足で部屋に上がってしまった外国人がいたとして、「あいつは変人だ。普通の人は土足で部屋に上がらない。」とはならないだろう。これと同じことである。

8. 教室に枕を持ってきて寝ている。寝袋で寝ていた日もあった。 
授業前の睡眠がパフォーマンスを向上するためである。とりわけALESSなどの授業が課す多量の課題は良質な睡眠の妨げとなるため、そのままでは十分な能力を発揮することができない。従って家に加えキャンパスでも眠ることが自然に要請されてくるわけである。独自の調査の結果、枕の使用は睡眠をより快適にし、起床後のすっきり感を増すことが判明している。
寝袋で寝ていたのは、徹夜明けでより熟睡が求められる日のことだった。夜通し課題を行った後に生じる睡眠欲求が、遅刻や欠席の原因となりうることは論を俟たない。それを思えば、欠席予防のため授業が行われる場所で眠ろう、と考えるのは合理的な発想といえる。私が眠っていたのは小さい教室であり、最低でも出席を取るときには教員が気づくはずだからだ。
普段のように机に突っ伏すのではなく、わざわざ寝袋を持参したのは、一日一度は横になって眠らなければパフォーマンスが非常に低下すると推測されたためだ。これは飛行機に乗ったときや寝落ちしてしまったときの経験を類推したものである。よりよい睡眠を確保するため努力を重ねるのは、勉学に努めることと同じ話であり、学生として当然のことである。
この眠りへのたゆまぬ努力の結果、授業中私は非常に集中している。極めて集中しているため授業中にTwitterをしてしまうほどだ。目をつむっていても先生の話が聞こえたことさえある(*7)。

このように、私の一見奇妙な行動は実は全く奇妙なものではなく、簡単な原理に従って行動しているだけのことだと分かって頂けただろう。ここまで読んでくださった方々は、私は生粋の常人であって(*8)決して変人でないと確信されているはずだ。これほど徹底的に論破してもまだ私が常人だと信じないならば、寧ろそれはあなたの方がひねくれた変人だという証拠である(*9)。
 人の行動は断片的にしか見えない以上、全体像は推測するしかない。誤解が生まれる素地というのはそこにある。今回の記事が皆様の誤解を晴らし、私という人間を正しく理解することにつながれば幸いである。


(*1)他によく選ぶ曲に「Dolly Song」「La Bamba」「信濃の国」「ラジオ体操第二」「さなだむし」などがある。曲を知らなくても楽しめる/有名である/変化がつけられる などの基準で、私の知っている数少ない曲の中からカラオケ向きだと判断したものである。機種にもよるが、すべてカラオケに入っている。参考になれば嬉しい。
(*2)無論、「自由人」と「変人」も異なる概念である。自由人であるためには、変なことをする必要はない。要は心の欲する所に従えども平凡の範囲を踰(こ)えない、ということだ。この記事を読めばわかるように、私はこれに当てはまっている。
(*3)京大が好きなのにどうして東大にいるのか、と聞かれたこともある。この辺りの事情は過去の記事(ここここ)に詳しい。
(*4)例えば、ビーカーに出汁入りみそを入れ、それに適量の水や具材を入れそのままレンジでチンすれば簡易の味噌汁ができる。あるいは、ホットココアを作るときも、牛乳の量をビーカーで量り、粉を入れチンしてそのまま飲む。このように、ビーカーの「量れて」「加熱してよい」という特長はなかなか便利である。
(*5)薬さじはNaClやスクロース(私は料理用の塩や砂糖の容器にこう書かれたラベルを貼っている. 薬さじに対応するものだからだ)などをすくい取るのに使っている。
(*6)変人が変人であるためには、常識の枠組みを認識した上でそこからはみださねばならないと考えられる。強調しておくが、これができていない点で私は常人と言わざるを得ない。
(*7)この段階を保ち続けると、いずれ教員の声も聞き取れなくなってしまう。集中の結果「心頭滅却すれば火もまた涼し」とでもいうべき悟りの域に達しているものと推測されるが、この状態に関する記憶はなく証明できない。実に不運なことである。
(*8)自由人として認識してもらっても構わない。
(*9)あなたの主張を仮に受け入れ、私が変人だと仮定してみよう。しかし、私はあなたと異なり、記事中で述べられている説明を虚心坦懐に受け入れている素直な人間である。よって、その分私はあなたより変人さやひねくれ度合いで劣るということになる。

2016年7月7日木曜日

如才の弁明(1)

私が変人であると主張する者がいる。実際、先日ある東大の友人と話をしたが、彼がその一人だった。

このような見解を前にして、一度「私よりも明らかに変な者がいるではないか。例えば、最新号の某キャンパスマガジンにはこれこれこういう記事があり、このような奇行をする東大生がいることが分かる。」と述べたことがあった。しかし、この方法による反論は有効ではないことがわかっている。「確かに君が彼らより変でないことは認めるが、彼らは大学全体でもトップクラスに変な集まりである。君が変であることに変わりはない」という具合に返されるのである。更には、「持っている変人基準までもが変」ということにされ、逆に私が変人であるという主張の根拠にされてしまう。
これならまだましな方で、変人の例として様々な友人を持ち出した暁には「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤くなる」と言わんばかりに「そのような変人ばかりの交友関係を持っているという事実が、君の変人さを示唆するものである」といった主張をされる始末である。大学生にもなると子供だましの詭弁は通用しないのだ。(ここで私が用いた詭弁は「論理のすりかえ」に分類される。) 

そこで、ここでは私が変人であるという主張に真正面から異議を唱えることにする。私が変人だというのは全くの誤解である。私はそんな優れた、あるいは特殊な者ではない。私はもっと平凡でありふれた存在だ。このことを分かっていただくため(*1)、自らの行動を弁明する記事の執筆を決意した次第である。
これから、私の「変人説」の根拠として代表的なもの2/3ダース(*2)を挙げ、その行動の背景を説明していく。この記事は前編として前半の4つ(つまり1/3ダース)を扱うこととする。なお、私のことを既に常人だとお考えの多くの一般的な方にとって、この記事を読むのは時間の無駄であることを断っておく(*3)。


1. 日本語で挨拶しない日がある。
単に、その日は日本語に飽きているだけである。飽きてはいても日本語くらいしかまともにしゃべれないため、挨拶以外は渋々ほぼ日本語で話している。もっと他の言語が上達したならば、この習慣を推し進めて気まぐれで話す言語を変えるつもりだ。
速やかに返事をしなければ不自然になってしまう会話と異なり、書き言葉なら考える時間がとれる。ゆえに、ネットを介してメッセージを送り合う際は英語・漢文・古文・モールス信号などでコミュニケーションを行うことも多い。しかしこれができる相手が限られてしまうのは残念である。大抵の場合異言語の導入を突発的に行ってしまうため、突然の出来事に戸惑いを覚えるのだろうか。相手によっては、異言語を徐々に織り交ぜていくよう心がけたい。

2. しばしば、数式がデザインされたTシャツを着ている。
数式は簡潔な表記の中に多くの意味が込められていてCOOLだと思う。或る人には「お前よくそれで渋谷歩けるな」とまで言われたが、もし客観的に見てCOOLでないならそれは私のファッションセンスが悪いだけである。一応述べておくが、無論「ファッションセンスがない」と「変人である」は異なる概念である。

3. ある日の自己紹介で「人間という生き物を19年間やらせていただいております」と述べた。
一見自明だが、自分でも時々不安になることだ。自己紹介で述べる全ての前提になるだけに、誤解の余地がないよう念には念を入れてはっきり自分の見解を表明しておいた。

4. 「東京大学キムワイプ卓球会」というサークルに入っている。
このサークルは「理系に広く知られているキムワイプ(*4)で卓球を行うことで、分野を越えた人材の交流を図る」という理念のもと設立された、大変まともなサークルである。要はサークル活動を通して人脈作りを行っているのであり、「意識が高い」と言われる理由はあっても「変人」と言われる理由はない。よって、所属サークルをもって私を変人とする指摘は全く的外れである。

いかがだっただろうか。後編では更に強力な説明を行うつもりであり、期待していてほしい。(続く)


(*1)今までこの手の私の主張を人に理解されたためしがないが、それは私の話が下手だったからと推測される。内容としては全く難しくない話であるため、記事にすれば他人にも容易に理解されることだろうと考えている。
(*2)思い出せたのが2/3ダースだっただけで、この2/3という数に意味はない。根拠はまだあるかもしれないが、大意に影響はないだろう。仮に全く変なところがない人がいたとして、その方が変ではないか。だから今回の私の説明に納得できない部分が多少あったところで、私は変人だということにならない。それでも何か意見があるようなら、コメントで受け付けるつもりだ。
(*3)せっかく記事を書いてもここで読者の大半を失ってしまうことになるのは不本意だが、致し方ない。この文は後で付け足したものだが、「あまりにも読者層を絞ってしまった。もっと読者を選ばないテーマで書くべきだった」と後悔している。
(*4)キムワイプとは、ビーカー等実験用具を拭くときに使われる紙の製品である。キムワイプは何かを拭く性能に優れており、家庭にも備えておくよう勧めておく。いうまでもなく、鑑賞用としても有用である。