2018年12月31日月曜日

ツイイト・セレクション2018

@tactfully28が2018年に投稿した呟きの一部を紹介します。これさえ読めば私の一年を一通り把握することができると思います。

[1] 意味の不明なツイイトをしてしまった。人生の意味が不明だったので……。

[2] おとうさんスイッチの「し」が「死ぬ」だったために「そ」まで完遂できなかった回

[3] 七味唐辛子って麻もケシも入っていてお得感あるよな

[4] 【熱中症対策】不要不急の存在 ひかえて

[5] 死の瞬間まで頭の中が快楽物質だらけでいられるわくわく世界になってほしい、そうなれば生きているだけで儲けものと心から言えるから

[6] クーラッススが今年もやってくる〜♪ (第一回三頭政治)

[7] うわーーーーーーー時間が怖い!助けて空間!!(これは罠で、相対論を見れば分かるように時間と空間は裏で結託している 時空に救いを求めても無駄である)

[8] 時空は俺を救わない ただ、ただ包み込んでくれる……

[9] 「D進は社会的自殺」「死は救い」→「D進すれば救われる」(三段論法)

[10] オーバードースに憧れを持っているからビオフェルミンを用量以上に服用した

[11] 腹壊してトイレに駆け込んだら清掃員の人に「いらっしゃいませ!!」と言われた

[12] 調理のことを死体弄りと呼ぶのはやめましょう

[13] 笑いながら馬謖を斬る人、だいぶ怖いな

[14] 「大学のトイレを掃除していると、「トイレ掃除は若者に人気」「トイレ掃除が好きな理由は、18%が「男女の出会いがあった」でトップ」「クリスマスには納豆ブラックカレーを食べよう」という張り紙がしてあった。読んでいたら出廷の時間(私は6人くらいの信号無視集団に加わった罪で起訴されていた)になっていて、出廷したところなぜか20分後に再集合ということで一旦解散になった。控え室で時間を潰していたらそのまま眠ってしまい、起きた頃には裁判は終わっていた。判決文が届いていて、見ると私は無罪になっていた。私は、これは不当なSLAPP訴訟だったなと思った」という夢を見た。

[15]  睡眠が浅い。人間性が浅いからやろか

[16] 甘酒を温めた牛乳で割ると美味しい、そういう世界の理を日々確認しながら生きている

[17] 俺、俺のダメ人間さを日々感じさせられていてかわいそう たまには俺というダメ人間から解放させてあげたい

[18] 人生をやるのは嗜む程度にしたい。過度の人生は健康に悪いので 

[19] 「地の塩、世の光」と言いながらカルタゴに塩を撒く人

[20] どこの馬の骨とも知れぬ肉骨粉

[21] 街が溶けて溺死する夢を見た 

[22] 塩味のタンパク質を炭水化物と一緒に食べると美味いの原理 

[23] フィギュアスケーター「私は氷上のクォーク……」(スピン量子数1/2)

[24] 「いい人殺そう保元の乱」で保元の乱を覚えた 

[25] 反吐を出す(能動的な人)

[26] 子子子子子子 死死虚虚死死 (ねこのこ こねこ ししのこ こじし)

[27] 今日は北米におけるコカインの蔓延を描いたドキュメンタリーを見ようとしたが, 注射シーンが苦手で20分と持たなかった。所詮お前のドラッグネタはファッションかと罵られても文句は言えまい。 

[28] 「留年したい」
「留年しても根本的な解決にはならないのでは」
「 "根本的な解決" .....。死の隠語?」

[29] 3Dプリンターでがんもどき(*1)を作り逮捕

[30] 好きなガラムマサラの成分はクミンです。よろしくお願いします。 

[31] 何が草不可避だ 本当に避けられないのは死

[32] 勝ーって嬉しい花200ポンド(ボクシングヘビー級)

[33] お腹がすいたものの料理を作るのが面倒だったため、料理を作らずにいたら料理が完成しなかった。この結果私は今お腹を空かせている

[34] 「この温泉は血赤色です」と言おうとして、間違えて「Mi sono svegliato」と言ってしまう夢を見た。

[35] 好奇心は猫をも殺す(好奇心を持つと猫でさえD進してしまうので)

[36] 高校の頃、雪が降ったときはよく清少納言ごっこをしていた(清少納言ごっことは、1人が「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ。」と言って、もう1人がブラインドを高く上げて雪を見せる遊びである)。

最優秀賞は[33]に決まりました。来年も当アカウントをよろしくお願いします。

[37] ありがとう たくさんのfav たくさんのいいね たくさんの愛 人類愛……

(*1)pseudo-gun

2018年12月24日月曜日

日常系4コマ(1)

4コマ漫画を描きました(*1)。こちらで読みにくい場合はTwitter版もあります。




To Be Continued...... (次回 1月1日 0時更新)

(*1)この漫画に関して、「薬物中毒者を笑い者にしており、差別的だ」「ただただつまらない。時間を無駄にした」「Aは「覚醒剤を買うのを今すぐやめろ!」などと強い言葉でCを責めているが、薬物中毒者に必要なのは粘り強い支援とケアであり、こうした説教は不適切だ」「作中で違法行為が度々描かれており、不道徳だ」などといった感想を抱かれるかもしれない。そこで、ここで漫画の意図を説明しておこう。
この漫画は、(結果として私の中の差別心が現れたものになっている可能性は当然あるが)差別を煽ることを意図して描いたものではない。ここでは、薬物は依存心や現実逃避の欲求の象徴である。これらは、薬物中毒者に限らず、大なり小なり誰もが持っているものだ。つまり、薬物中毒者が薬物を断ち切ることができたとしても、依存心や現実逃避の欲求は、人である限り一生付き合って行かなければならない。こうした人間の負の側面は、出来るだけ克服しようという努力も重要であるが、どうやっても完全には克服できないだろう。そうした困難に直面したときに大切なのは、自分が持つこういった欠点を認め受け入れた上で、それを笑い飛ばす姿勢なのではないだろうか。そしてこの姿勢によってこそ、人は欠点に溢れた自分を肯定して生きていくことが可能になるのではないだろうか。
こういった思想のもと、具体的な「人間の欠点」として「依存心や現実逃避の欲求」を取り上げ、それを薬物依存という題材を通して象徴的に描くことで、己の欠点の昇華を試みたのがこの漫画なのである。漫画の読解にあたっては、このような意図を汲み取って頂ければ幸いである。

2018年11月21日水曜日

4コマ漫画「STOP!! 薬物乱用!」

薬物乱用防止を訴える啓発漫画(4コマ漫画×3本)を描きました。右上が最初のコマです。
ぼやけている場合は、画像をタップ/クリックして下さい。たぶん鮮明な画像が表示されます(Twitter版を見るという手もあります)。
さらに、@__DielsAlder__さんがなんと漫画化(?)して下さいました!優れた作画による活き活きとした表情がついたことで、メッセージ性が深まり、より心に響く作品になったと思います。合わせてお楽しみ下さい(表示されない場合はこちらへ)。

2018年11月18日日曜日

日記: 東京証券取引所と水再生センターの見学

今学期には全休にできる平日がある。そこで、その平日休みを活かして平日ならではの遊びをしようと考えた。

どういう遊びをしようか検討してみて、自分が下水処理場の見学をしたい気分であることに気が付いた。これは平日しか受け付けてもらえない。水再生センター見学窓口に電話をしてみたところ、三河島水再生センターが空いているとのことだったので、11月16日の13時からで予約をした。1人でも見学が可能らしい。

11月16日になった。午前中はまず入谷駅で降りて(*1)銭湯で朝風呂に入ったあと、日本橋の東京証券取引所に行くことにした。ここの見学も平日しかできないのだ。中に入るといきなり物々しいゲートが出迎える。フライト前のような手荷物検査を受け、善良な小市民として認められた私は中へ入ることを許された。東京証券取引所を見学する際は、カバンに爆弾や覚醒剤が入っていないか事前によく確かめておくべきである。

中を進んでいくと、あの象徴的な「株価が高速で回る電光掲示板」を見ることができた。緑字が前日比マイナスを、赤字が前日比プラスを表すようだ。また、大画面モニターにはTOPIX 100構成銘柄の株価が表示されていた。取引が行われると瞬時に反映されていく。日本経済の動向が直感的に見て取れて、眺めているととても楽しい。数字を見ていると瞬く間に1時間が経ってしまった。もう1ヶ月ほどすればクリスマスであるが、"日常と地続きの非日常感"を味わえるこの場所はデートスポットとしても自信を持ってオススメできる。なお、私は今まで一度も他人と交際したことがない(自分自身と交際したこともない)。この知見の活用は読者の方に任せたいところだ。

再び地下鉄に乗って、町屋駅で降りた。都電の線路に沿って歩いていくと、三河島水再生センターが現れる。13時ちょうどに正門前に到着すると、職員の人が待っていてくれていた。よく見ると3人もいる。対して見学者サイドは私1人。もし戦闘にもつれ込んだら多勢に無勢、勝ち目はないだろう。加えてここは相手方の本拠地だ。近くに逃げられそうな場所は銭湯くらいしかない。遅れないでよかった。私はほっと胸をなでおろした。
到着するとセミナー室へ案内された(*2)。机の上に何か置いてある。どうやらお土産のようだ。しかし解説役3人にお土産にと、私一人にそんなに税金を使って大丈夫なのだろうか。都議会で糾弾されてもうまく答弁できる気がしない。喚問されないことを祈るばかりだ。
お土産。かなり多い
セミナー室では東京都の下水道事業に関するビデオを視聴した。食事の後であり、夢の世界に没入する様子を3人に見られでもしたらどうしようと心配になったが、なんとか意識を現実世界に繋ぎ止めておくことができた。
ビデオの後は実際に水を処理している場所に連れて行ってもらった。砂利などを沈殿させた後、微生物の作用で汚泥を分解し、できた塊を再び沈殿させたら、塩素で消毒して放流するのだという。各槽の蓋を開けてもらって中を覗かせてもらった。初めは汚く濁っていた水が最後には透明になって流れていたのは、少々感動的でさえあった。
下水処理場の見学自体は小学生の頃に一度体験したことがあるが、成長してから訪れたことで当時より興味深く見学を楽しむことができた。見学していると疑問点が多数湧き上がってきたが、見学者が私一人ということもあってそれら全てに丁寧に答えていただいた。見学コースは105分間とのことだったが、思いつく限りの質問を尋ねているとあっという間に過ぎてしまった。
このように、水再生センターの見学は非常に楽しいものだった。しかし、東京証券取引所と違ってデートスポットとしてはオススメできない。というのも、見学中はずっと汚水の臭いがするのである。見学中にくさいだけならともかく、服に臭いが染み付いて帰宅してからもくさかった。言われてみれば当然のことだが、これは体験してみないと気付けない盲点であった。たまたま今は彼女がいないため雰囲気ぶち壊しとなる事態は偶然にも免れることができたわけだが、もし彼女がいたらここでデートをしようと誘っていたことだろう。読者の方は、どうかこの注意点を頭に留めておいてほしい。おそらく、デートスポットに選ぶなら下水処理場よりも火力発電所の方が無難だと思われる(*4)。

(*1)萩の湯の最寄り駅は鶯谷である。入谷を使っているのは、東京メトロの24時間切符を買っているためだ。
(*2)歩いている間、見学の目的を尋ねられた。私は「なんとなく」と答えた。
(*3)とはいえ、火力発電所に行ったことはない。ここにも何か予期せぬ陥穽があるかもしれないし、そこまでは保証できない。

2018年11月1日木曜日

日常の中のサイエンティフィック・スポーツ

概要
KTTA「キムワイプ卓球の基礎知識(2)」で述べた定義のもとでは、それまで無意識的に行われてきた日常の中の営みがサイエンティフィック・スポーツに該当し得る。そのような活動として、例えば論文スタイルエッセイ、引用的ツイート、実験器具料理などが挙げられる。本稿では、今まで光を当てられてこなかったそれらの行為について述べ、新しいサイエンティフィック・スポーツとして提案する。

本文
サイエンティフィック・スポーツという用語は、キムワイプ卓球のようなものの総称として使われてきたが、その定義は近年まで曖昧であった。サイエンティフィック・スポーツの定義が初めて明確に与えられたのは、「キムワイプ卓球の基礎知識(2)」(KTTA, 2018)においてである。その資料内で、KTTAはサイエンティフィック・スポーツを「研究内容とは関係ない科学コミュニティにおける共通作法による,本業以外の営み」として定義した。例えば、キムワイプ卓球における「共通作法」とはキムワイプであり、「本業以外の営み」とは卓球である。また、マイクロピペットダーツにおける「共通作法」はマイクロピペット、「本業以外」はダーツとなる。
これまでは、サイエンティフィックスポーツとして、キムワイプ卓球やマイクロピペットダーツのような従来のスポーツに近いものばかりが目立っていた。しかし、この定義から分かることは、「共通基盤」と「本業以外」から成るならば、必ずしも(通常の意味での)スポーツである必要はないということだ。では、この定義を使って新しいサイエンティフィック・スポーツを作り出すことはできないだろうか?
実は、「キムワイプ卓球の基礎知識(2)」では、その可能性についても触れられている。そこでは、今後登場しうるサイエンティフィック・スポーツとして、「インパクトファクター文学」「キムワイプ音楽」「学位ボウリング」「挑戦的萌芽絵画コンクール」の4つが挙げられている。しかし、これらはいずれも、意味が分からないため事実上実行不可能であるという問題点を抱えている。 従って、 新しいサイエンティフィック・スポーツを作り出す上では、単に新しい用語を与えるだけではなく、それらの用語がどのような行為を指しているのか、その内容が理解可能なものを考案しなければならないということになる。
そこで更に「キムワイプ卓球の基礎知識(2)」を読み進めると、「サイエンティフィック・スポーツによるサイエンティフィック・スポーツ」の項目にたどり着く。ここでは、五月祭で実施された「キムワイプ卓球研究会」などもサイエンティフィック・スポーツに該当するということが述べられている。なぜならば、キムワイプ卓球研究会もまた、キムワイプ卓球という「本業以外」と研究会という「共通基盤」の2つの要素から構成されているためである。これは、意味が理解可能で、かつ新しい定義によって新しく生まれたサイエンティフィック・スポーツの例にまさしく該当している。ところが、この「キムワイプ卓球研究会」は新しくサイエンティフィック・スポーツを作ろうとして生まれたサイエンティフィック・スポーツではない。実際、私は第一回及び第三回キムワイプ卓球研究会の責任者としてその運営に携わっていたのだが、研究会の最中も「自分はサイエンティフィック・スポーツをしているのだ」という認識は持っていないかった。この事実は、我々が無意識のうちにサイエンティフィック・スポーツを行っている可能性、知らず知らずのうちにサイエンティフィック・スポーツを作り出している可能性があることを示唆している。
そこで、新たなサイエンティフィック・スポーツを打ち出す上で、サイエンティフィック・スポーツの発明を試みるのではなく、発見を試みるというアプローチをとって考えてみることにした。その結果、自身の日常生活の中からいくつかのサイエンティフィック・スポーツを見出すことができた。それが、以下で述べる論文スタイルエッセイ、引用的ツイート、実験器具料理である。

(1)論文スタイルエッセイ
「fire HD 8タブレットの話」「バイトの話」のように、論文のような構成, 書き方で書かれたエッセイや日記のことを、論文スタイルエッセイと呼ぶことにする。上記の例では、特に実験の論文を意識して、概要+背景+方法+結果・考察を骨子として書かれている。 論文風エッセイは、論文スタイル(共通基盤)+エッセイ(本業以外)から構成されている。

(2)引用的ツイート
「“統合自然地理学”という本の存在は統合自然サーチ人に広く知られている (tactfully28, 2018).」というツイートのように、ツイートの後ろに "(名前, 年)"を付けてあたかも何かを引用しているかのように見せかけたツイートのことを、引用的ツイートと呼ぶことにする。引用的ツイートは、引用のフォーマット(共通基盤)+twitter(本業以外)から構成されている。

(3)実験器具料理
私はビーカー、薬さじ、駒込ピペットなどを持っているが、それらを使って味噌汁、ココア、プリンなどを作ってきた。このように、実験器具を料理に使うことを実験器具料理と呼ぶことにする。実験器具料理は、実験器具(共通基盤)+料理(本業以外)から構成されている。

私が発見したサイエンティフィック・スポーツは以上の3つである。今後も、サイエンティフィック・スポーツのコミュニティが拡大し、様々なサイエンティフィック・スポーツが発掘されていくことに期待したい。

2018年10月27日土曜日

政府が仕組んだ死のゲーム

今月の初め、本庶先生のノーベル賞受賞決定のニュースがあった。その会見で、本庶先生は「もっと予算をばらまくべき」と述べ[1]、基礎研究への支援、若手への支援を訴えられた。本庶先生は、若手を支援するための基金を設立される予定だそうだ[2]。[2]にあるように、近年ノーベル賞を受賞された他の先生方も同様の主張をされており、その背景には日本の基礎研究の今後への危機感があるとされる。
ここ15年ほどの日本の科学技術政策を語る上でのキーワードの一つが、「選択と集中」である。これは、芽が出そうな研究を審査で選んで、そこに資金を集中投下することで画期的な成果を生み出そうという考えのことだ。国公立大学の法人化以後、運営費交付金は削減され続けた[3]が、その一方で、特定の研究を指定して大型の予算枠で重点的に支援する政策[4][5][6][7]や、文科省のお眼鏡に叶った大学の運営費交付金を重点的に支援する政策[8][9]が多く実行された。文部科学省は、このような重点化政策は「効果的・効率的な科学技術政策」を推進する上で重要だとの見解を示している[10]。
これらの政策により、研究において競争的資金を獲得することの重要性が増加した。これは一見好ましいことのようだが、ポストの不安定化や資金使途の自由度の低下をもたらし、研究者を疲弊させているとの批判がある[11][12]。2016年にノーベル賞を受賞された大隅先生も、「新しい未知の課題に挑戦することが難しいという雰囲気をますます助長している」と指摘されている[13]。
しかし、ノーベル賞を受賞されるような先生方がいくら懸念を表明し、実際に論文数が減少し[14]、大学院生の博士課程進学率が低下し[15]ても、こうした大学政策が転換される気配はない。これは少々不自然なのではなかろうか。こうした政策は研究者のためになっているというのが文科省の考えだろうが、本当に研究者のためを思っているのであれば、実際に研究をされている偉い先生方の意見をもう少し聞き入れるはずだろう。一連の政策には、何か裏の意味があると考える方が妥当である。では、裏の意味とは一体なんだろうか?私の考えによれば、それはデスゲームである。政府はこのデスゲームの黒幕であり、科学技術政策を通じて大学をデスゲームのプレイヤーにしようとしているのだ。

2018年10月22日月曜日

「私の院試体験」目次

第1回 ~6月上旬: 北大への出願を決定
第2回 6月上旬~7月上旬: TOEFL ITP受験
第3回 7月中旬~7月下旬: 北大にレポートを送付、京大への出願を決定
第4回 7月下旬~8月初頭: 実家へ
第5回 8月上旬: 実家
第6回 8月中旬、8月17日: 東京へ
第7回 8月17,18日: 東京へ
第8回 8月19日: 北大口頭試問
第9回 8月19日: 北大口頭試問
第10回 8月20日: 京都へ
第11回 8月21日: 京大筆頭試問
第12回 8月21日: 京大筆頭試問
第13回 8月21,22日: 京大筆頭試問、 京大口頭試問
第14回 8月22日~: 京大口頭試問、 合格発表

2018年10月7日日曜日

歩きバナナ

先日、4限の授業に遅刻した。その教室にバナナを食べながら入ったところ、授業終了後に友人から指摘を受けた。
友「なんで教室入るときバナナ食べてたの」
私「え、お腹が空いていたから。お腹が空いている状況で授業を受けても勉強にならないと思って」
友「食べてから来ればいいじゃん」
私「お腹が空いていたから早くバナナを食べたかったし、遅刻していたから早く教室に入りたかった。その結果自然とこうなった」
友「いやー、入ってくるときなんでこいつバナナみたいなもの持ってんだ?ってなったよ」
私「うーん、食べてから来れば良い、か。言われてみればその手もあったか。その発想はなかったな」

考えてみれば尤もな指摘で、歩きバナナは行儀が良くない。
それに、私は物事を同時進行で行うのが人より相当下手であるのに、教室に入ることとバナナを食べることを同時にやろうとしてしまったのも褒められたことではなかった。バナナだからまだよかったものの、もうすぐみかんの季節である。これがみかんだったら、教室のドアを開けたり教室の前方で先生からレジュメを受け取ったりするタイミングでもうしっちゃかめっちゃかになっていたであろうことは想像に難くない。

今度から、果物を食べる必要があるときは着席してから食べるようにしようと思う。それ以前の問題として、4限の授業に遅刻しないようにしようと思う。

2018年10月5日金曜日

撮影禁止を撮影したい

ある店に、次のような張り紙がしてあった。
Shooting Ban!? 一体どうしてこうなった。これを目にした私は、この張り紙を撮影してSNSにアップロードしたい衝動に駆られた。しかし、これを撮影してはならないことは、他ならぬこの張り紙自体が伝えている。禁止されているからこそ逆にやりたくなるという状況はしばしばあるが、これはちょっと毛色が違う。「撮影禁止それ自体を撮影したい」「ついつい撮影したくなるような撮影禁止が目の前にある」という状況なのだ。いわば、「この法律に反対することを禁じる」という条文を含んだ法律が制定された、みたいな話だ。撮影禁止にも色々あるが、こんなディストピア的撮影禁止は初めて見た。

やむを得ないので、こうして撮影禁止を模して作ったpseudo-撮影禁止(上図)を撮影し、撮影禁止撮影欲求を満たしている次第である。

2018年10月2日火曜日

つい洗剤を出しすぎてしまい困る

ここ数日、つい食器用洗剤を出しすぎてしまう傾向にある。洗剤の出しすぎは、水質汚染、水資源の過剰利用、皮膚への悪影響、生活コストの増大、赤潮、漁業の衰退、QOLの低下、経済の低迷、人心の荒廃、そして最終的には死を招くとされる由々しき問題であり、私はこの問題の対処に手を焼いている。一体どうしてこんな事態になってしまったのか、その経緯を振り返ってみたい。

私はここ一年間、食器用洗剤としてキュキュットを使用している。洗剤の選択に関して特に信念があるわけではなく、キュキュットなのはたまたまである。食器用洗剤はおよそ二年に一本のペースで消費しており、これは大学入学してから二本目の食器用洗剤だ。以前は別のものを使用していたが、何を使っていたのかはもう覚えていない。重要視していることさえ容易に忘れてしまうのだから、洗剤の種類のように重要視していないことは尚更容易に忘れてしまうのだ。
さて、一年強ほどこのキュキュットを使ってきたわけだが、その結果、洗剤の出口の周囲で以前洗剤だったものがまるで怨念のようにこびりついて固まり、洗剤のスポンジへの滴下を妨げるようになってきた。そう、かつては同じ洗剤の同胞であったのに、スポンジへの着地に失敗してしまったたがために、社会の不要物としての謗りを免れることができず、日に日に怨念を募らせ、同胞の活躍を妨害するようにまでなってしまったのだ。私は同情と憐れみを含んだ視線で洗剤だった塊を一瞥した。人で例えるなら......仕事に就くことができず、日々の鬱屈した生活に不満を募らせ、ついに通り魔に走った犯罪者、といったところだろうか。人に例えない方が同情できそうだ。
あるいはこう言っても良い。洗剤塊はまるで凝り固まった古い考えのようにこびりついていた。人で例えるなら、自らの不要性を自覚できず、凝り固まった古い考えに支配され、同胞の活躍を無意識のうちに妨げてしまう老害である。洗剤塊を眺めながら、こうはなりたくないものだと私は自戒した。

話を戻そう。結局何が言いたかったかというと、洗剤の塊が洗剤の出口を塞いでいたということだ。通り魔にせよ老害にせよ、これを排除しなければならない、私はそう決意した。そして、ボトルの蓋を取り外し、お湯に付け、固まった洗剤塊を爪楊枝で何度も掻き出すことにより、洗剤塊を取り除くことに成功した。これがそのボトルだ。一番上の突起のようになっている部分の中と外で洗剤だったものが大量にこびりついていた訳である。

洗剤塊を除去された後のボトル

ちなみに、このボトルにはクリア除菌と書いてあるが、私が持っているボトルの底面は見たところ全く除菌されていなかった。意外だろうが、洗剤に除菌機能があっても、ボトルには除菌機能がないと推測するしかない。もしあなたがキュキュットの購入を検討しているならば、このことは気に留めておくべきだ。底面を自動的に除菌する機能がついた洗剤ボトルの速やかな開発が待たれる。それにしても、あの底面は思わず地球上の生物の多様性について思いを馳せてしまうような有様であった。もしかしたら、皿から除かれた菌たちが、まるで反政府ゲリラが拠点に集まるように、ここに集結しているのかもしれない。

話を戻そう。この処置の結果、相当な圧力をボトルに加えてようやく一滴が落ちるという具合だったのが、軽く握れば適量が出るようになった。これを受けて私は満足して就床したが、翌日洗剤を使おうとして驚いた。出すぎるのだ。あまりにも出るので、一時は洗剤だけでなく幽霊まで出たのかと思ったほどだ。幽霊が出たのかと思ったのだから驚くのも当たり前である。私はホラーが苦手なのだ。
話を戻そう。洗剤が過剰に出てしまったのは、洗剤の使用にかなりの圧力を要求されることに慣れてしまって、ついボトルを押しすぎてしまうからである。この洗剤の出しすぎは、それから数日経った今でも続いている。洗剤の過剰な使用は最初に述べた通り重要視すべき問題なのだが、それでも前回の教訓をすぐに忘れてしまうのだ。このように、外力を受けない限り、人は現在の習慣をそのまま続けようとする性質を持っている。人は急激な環境の変化についていけないのだ。これは慣性の法則と呼ばれている。
話を逸らそう。洗剤と言って思い出されるのは、「洗剤」という掌編小説である(*1)。掌編小説「洗剤」は、中学生の頃、私のある友人によって国語の授業の課題として提出されたものだ。 与えられた課題は、「ジーンズを洗って干した」の冒頭部分で知られる高橋順子の詩「ジーンズ」を小説へと翻案せよ、という内容だった。それを彼は、「ジーンズを洗って干した。洗剤はもちろんトップだ」と書き始め、ジーンズの洗い方に並々ならぬ信念を持った主人公を描く、洗剤の選択がテーマの奇天烈な小説にしてしまった。これが傑作で(*2)、 何度読んでも大笑いできる代物だったのだが、 詳しい内容は忘れてしまった。私の笑いの価値観に影響を与えた重要な作品だっただけに残念である。それはそうと、一体どんな頭の構造をしていたらあんな文章がかけるのだろうか。世界は不思議で満ちている。

話を戻そう。結局何が言いたかったかというと、人は急激な環境の変化についていけないということだ(*3)。最近は暑かった夏が終わり気温が急激に下がるだけでは飽き足らず、台風や新学期まで到来する始末である。体調を崩したり怪我を負ったりすることのないよう、どうか健康に気をつけてほしい。

(*1)他に洗剤から思い出されるのは、また別の友達の部屋で皿洗いをしたときに、「そんなにしっかり洗わなくていいよ。洗ったという事実を重視しているから」と言われた出来事である。
(*2)その後しばらくして、学校がまとめた海外交流体験事業の感想文集が配布されたのだが、彼のページにはなぜか感想文ではなく「洗剤」が掲載されていた。彼はきちんと感想文を提出したにも関わらず、である。傑作のオーラが編集者の目をくらませたのだろうか。脈絡のない奇襲を受けた私は再び笑い転げてしまった。
(*3)付け加えれば、重要視していても忘れてしまうことは頻繁にあるので、私が何かを忘れていてもあまり強く非難しないであげてほしいということだ。

2018年8月12日日曜日

反社会的社会

何気なく見ていたテレビ番組で就活を扱っていた。模範的なエントリーシートを取り上げ、そのポイントを論じていたようだった。中身はほとんど見ていないが、志望理由の欄の「御社の事業を通じて社会に貢献したいと考えています」という一文が妙に印象に残った。
困っている人を助けたいという気持ちはわかる。私も、余っている臓器を移植したとまではいかないが、駅で荷物を運ぶのに難儀していた老人の荷物を代わりに運んだことくらいならある。しかし、社会に貢献したいというのは、あまりに抽象的で全く共感できない。どういう心理が働けば社会に貢献したくなるのであろうか。
一つ、「胎児期から社会のお世話になってきたから社会に恩返しがしたい」という仮説を考えた。まず、誕生の際は、健康保険から出産育児一時金が支給され、公的に金銭の援助を受けている。その後も、教育や医療などをはじめとして社会のお世話になり続けている。これらのおかげで現在の私があることは間違いない。それを思えば、社会に貢献したいというのは自然な考えかもしれない。
しかし、それを踏まえてもなお、私は社会に貢献したいという気がしない。そもそも、別に私は産んでくれと頼んで生まれてきたわけではない。医療にせよ教育にせよ、生まれてきてしまったからには(私の人生には)必要なので、渋々使っているだけのことである。断言してもよいが、生まれてきさえしなければ一度たりとも絶対に使っていなかった。そして、人が新たに生まれてくる背景の一つに何があるかというと、社会が自分自身を維持したいがために新しい構成員を欲しているという、エゴイスティックな欲望である。
つまり、人を自発的な就職に陥れるために社会が立てた策謀は、次の3ステップから成る:
1. 人を誕生せしめる。
2. 生まれた人は、そのままではまともに生きられないため、公的サービスを消費せざるを得ない。
3. その人が成長したら、就活・就職という形を通してその見返りを要求する。

これは反社会的勢力のやり方と同じである:
1. ヤクザが人にわざとぶつかる。
2. その人は示談金を払えないので、別のヤクザから金を借りる。
3. 忘れた頃に利子を含めて法外な金を要求する。
あるいは、
1. 人に無理矢理シャブを入れる。
2. その人はシャブなしには生きられなくなるので、シャブを消費していく。
3. 頃合いを見て違法労働に従事させ、シャブ代を回収する。

よって、社会は反社会的勢力である。適当に書いてみたが、全然似ていない気もしてきた。ただ、お金がないと我々は生きられないわけで、私に勤労の義務を課すというのは、私の命を人質にとって脅迫しているようなものである。やはり反社会的勢力の一種といって良いだろう。
こうした狡猾で卑怯なやり方に、私は断固として抗議の意思を表明する。具体的には、来年度は大学院に進学するか留年するかなどして、年金の納付猶予を延長し、扶養控除を活用した上で、公的サービスのさらなる浪費を推し進めていく予定である。

2018年7月1日日曜日

院試勉強に集中できない

一向に院試勉強に集中できず、レポートの執筆も試験対策も遅々として進まない。その原因として、以下に挙げる事項が考えられる。

1. セミナーが2つある。
研究室のセミナーと必修科目のセミナーの2つのセミナーを抱えており、その発表準備に時間がかかっている。それに伴う精神的負荷もあるだろう。

2. 気象条件が悪い。
雨の日は、低気圧で鼻の調子が悪くなり勉強に集中できない。
晴れていると暑過ぎて勉強に集中できない。冷房をつけると電気代が気になって集中できない。大学に行って勉強しようとすると、大学に辿り着くまでに暑さでやられてしまって集中できない。
曇りの日は曇りの日で(他の日と同程度に)集中できないが、その原因は未だ解明されていない。曇りの日に集中できない原因が気になって集中できない。

3. だいたい体のどこかが痛い。
筋肉痛になっている日もあれば、頭痛がする日もある。この前は深爪をして指先が痛かった。その前は鼻の粘膜が乾燥して鼻が痛かった。更に前は卵のパックを落として割ってしまう手痛い失敗をした。仮に体が痛くなくても、次の理由で心が痛い。

4. 社会問題が深刻化しつつある。
枯渇へと向かう化石燃料、解決への見通しが立たない地球温暖化、その恐怖を掻き立てる異常気象、生物多様性の減少、言語の消滅、少子高齢化、発展途上国の人口爆発、シリア等で続く紛争、難民問題、核開発、テロの脅威、格差の拡大と階層の分断など、我々が直面する重大な問題は枚挙にいとまがない。私はこれらの問題を深く憂慮し、恒久的な解決がなされることを強く望むとともに、何も成し得ない己の無力さを日々痛感している。痛感し過ぎた結果、心の痛みで大学院入試の勉強さえ成し得なくなってしまった。

5. キルミーベイベーの二期がない。
キルミーベイベーの二期さえ来れば、にわかに集中力が増すのではなかろうか。特に根拠はないが、そんな気がする。

6. 牛乳の摂取量が不足している。
牛乳は私にとって重要なタンパク源であるとともに、日々に活力を与えてくれる存在である。これが不足すると、私の場合まず初期症状として不眠傾向が強くなる。これだけでも勉強を妨げるに十分であるが、これを放置していくと次第に牛乳のことしか考えられなくなってイライラするようになる。従って、私が集中できていない理由として、牛乳の摂取量が不足しているというのは十分に考えられる。

7. 牛乳の摂取量が過剰である。
今もお腹がゴロゴロしている。1日で牛乳を1 L飲んだのはまずかったか。

8. 生きている。
我々は生老病死の四苦からは逃れられない。ただ生きているだけで、肉体があるために必然的に生じる苦しみに苛まれ続けねばならない。この苦しみのあまりの大きさとあまりの理不尽さを思えば、勉強に集中できている方がおかしいくらいだ。

9. 勉強に集中できない原因を考えている。
勉強に集中できていないと感じると、すぐにその原因は何だろうかと思いを巡らせてしまうせいで勉強に集中できない。そもそも、こんな記事を書く暇があったら勉強するべきだろう。

10. 大学院入試を控えている。
院試の存在がプレッシャーとなっているせいで、院試勉強に集中できない。院試さえなければどれほど院試勉強していたことだろうか。院試がない状態に置かれた私の鬼気迫る猛勉強のほどを皆様にお見せしたいのは山々だが、なにぶん院試というものがあるせいで叶わない。
こういうことを言うと、「では院試が終わったら猛勉強の様子を見せてくれ」などと言う者が現れるかもしれないが、そのときは「院試」が「卒論」に置き換わるためやはり猛勉強のほどはお見せすることができない。私が全てから解放されるまで今しばらく待っていてほしい。

院試のレポートの締め切りはもうすぐであるが、これらの理由から勉強に集中できなかったため、私はレポートを書かずにいた。すると、大変不思議なことに、レポートは完成しなかった。
10ページ中9ページを白紙として残した(*)レポートを前にして、私は頭を抱えている。

(*)唯一白紙でない1ページは、表紙である。

2018年6月29日金曜日

続かぬ家計簿

一時期、出納を把握するため家計簿をつけていた(下図)。

2017年6月の家計簿
ところが、家計簿をつけることは面倒で長続きしなかった。しかし、一つ分かったことがある。家計簿をやめた翌月は私の財政が放漫になるということだ。
家計簿をつけている間は、支出を意識するため緊縮的になる。これは、上の図では、例えば一ヶ月で牛乳を1L分しか買っていないことに顕著に表れている(*1)。そうして緊縮した翌月に家計簿をやめると、反動で支出が増加するのだ。つまり、家計簿をつけることそれ自体が家計にバイアスをかけるという構造がある。家計簿をつけることで知りたいのは私の平均的な支出であるのに、家計簿をつけるせいで支出が抑制され本来の支出を見ることができない。ちょうど、pHを調べるためにpH指示薬を加えるとそれによって水素イオン濃度が変化してしまう(*2)のと同じである。あるいは、細胞を観察するために細胞に入れた蛍光標識が細胞自身に影響してしまうのとも同じである。昔から科学者を悩ませてきた測定問題だ。
ともかく、現在の技術的限界を考えれば、これを克服するためには家計簿をつけ続けるしかない。それは分かっているのだが、家計簿をつけるのはとにかく面倒である。つけるべきだという理念と、つけるという実践の間には大きな隔たりがあるのだ。ちょうど、人類は世界平和を実現すべきであるのに、なかなか世界平和を実現できないのと同じである。
細胞の場合、蛍光観察をし続けるとそのダメージで死んでしまうこともあるという。今まで述べてきたように、家計簿はpH指示薬であって、かつ、細胞を光らせる標識でもあり、更には世界平和でもあった。その類推でいくと、私の場合も、家計簿をつけ続けるとそのダメージで死んでしまうかもしれない(少なくとも、100年くらいつけ続ければ死ぬだろう)。人類も、世界平和が実現されればそのショックで滅亡してしまうかもしれない。
こう考えれば、私が家計簿をつけないことは人類の滅亡を防いでいるといえるのではなかろうか。こうなってはやむをえない。大変不本意ではあるが、家計簿をつけるのは諦めるより他にない。

(*1) 緊縮というわりに娯楽費がかさんでいるが、教科書以外の本は全て娯楽扱いになっていることが大きい。その意味で、この月は"娯楽"が"必要"になったのだ。
(*2) pH指示薬は、ふつう、水素イオンと結合したり水素イオンを放出したりするpH依存的な構造変化によって色を変化させている。

2018年6月28日木曜日

K.如才は気付かない

今日、大学に行って友人と話をしていると、友人甲が友人乙に「髪切ったね」と言った。乙はそれを認めた。丙は「気付いていたけど言うタイミングを逃してしまって」と言った。私は気付いていなかった。
確かに、言われてみればすっきりした感じがする。そこで、「あー、確かに。言われてみればすっきりした感じがする」と言ったところ、笑われた。

それにしても、このような日々の小さな変化にロクに気付くことができない。思い返してみれば、近くに建物が新しく建ったことにも、花が季節の変化を告げたことにも私は気付けずに、友達や家族に教わることばかりであった。
私は、友人の散髪にただ1人気付くことができなかった己を恥じた。そして、こうして日常に潜む細やかな驚きへの感受性を失い、本当は豊かな発見で満ちた世界の中であらゆる新鮮な色彩を見逃し、今後の人生を灰色の退屈と倦怠で満たしていくのかと思うと、将来に暗い影が落とされるかのように感じられた。
これは嘘で、話を盛った。

とはいえ、小さい変化に気付ける人間になりたいのは本当である。私はそうなりたいと切に願っているのだが、残念ながら変化に気付く能力に欠けているようだ。おそらく、世界が「見え」ていないのだろう。もちろん友人の頭髪くらい視界には入っているのだが、私の脳を素通りしてしまっている。右の耳から左の耳、右の目から左の目、右の脳から左の脳、右の腎臓から左の腎臓へという具合である。もし私の消化器が上下ではなく右手から左手へと左右方向に伸びていたら、食物が素通りし消化不良に陥って餓死していたことだろう。

このように、私は変化に鈍感なため、いずれ接近する車に気付けずに轢き殺されるのでは、味の変化に気付けないまま毒入り料理を平らげて毒殺されるのでは、友人に変装した刺客に気付けずに暗殺されるのでは、消化器の配置がある日突然変わって食物が素通りし始め餓死するのでは、などなど生命の危険を感じながら日々怯えて暮らしている。些細な変化にも気付く能力を一刻も早く養って、希望と色彩に満ちた毎日を安心して送れるようになりたいものである。

2018年6月27日水曜日

Recife

あなたは下北沢に行ったことがあるだろうか。下北沢に行けば一度は視界に入ると思われる、下北沢のランドマークといえるビルがRecipe SHIMOKITA(レシピ シモキタ)である。Recipe SHIMOKITAは下北沢駅のすぐ近くに建つ複合商業施設で、スーパーや衣料品店などが営業し、多くの人で賑わっている。おそらく、下北沢の一帯で最も高い建物であろう。
さて、このRecipeであるが、私は昨日友達に指摘されるまで名前をRecipeではなくRecife(レシフェ)と勘違いしていた。Recife(wikipedia参照)というのは、150万人の人口を抱えるブラジル東部の都市である。この勘違いの直接の原因は建物のロゴを見間違えていたことだが、それにしてもなぜこんな単語に見間違えたのだろうか。単語としての知名度はRecipeの方が圧倒的に上のはずだ。私には心当たりがあった。そう、私はRecifeという単語を初めて知ったあの日のことを、今ありありと思い出した。

中学生の頃、毎日連絡帳に日記をつけて担任に提出することになっていた。ある日、私は次のような内容の日記を書いた。
「今日は文房具店で買い物をした。レジの店員さんに商品を渡し、代金を払うと、店員さんは「レシ」とだけ言った。その後その店員さんが言葉を発することはなく、私は領収書を受け取って、「あの不自然に切れた言葉は何だったのだろう」と訝しみながら帰宅した。今、国語辞典で調べることにより、店員さんが言いたかった可能性のある言葉として、レシーブ、レシチン、レシテーション、レシプロエンジン、レシフェなどが考えられることが分かった。もしかしたら、あの店員さんはブラジルの街に思いを馳せていたのかもしれない。」
もう少なくとも6年以上も前のことを思い出して再現したものなので、表現は全然違うかもしれない*1。ともかく、この日以来、私にとってレシといえばレシプロエンジンとレシフェだったのだ。そして、だからこそ私はRecipeをRecifeと見間違え、見間違えたまま覚えてしまっていたのだった。

それはそれとして、Recife SHIMOKITAというのはなかなかしっくりくるネーミングではないだろうか。雑然としながらも活気のある街下北沢の賑わいの中心地。南米のよくわからない街*2と何となくイメージが被る。私が己の間違った認識に対して疑問を抱くことができなかったのもやむを得まい。

(*1)もう少し幼稚な言葉遣いだっただろう。
(*2)よくわからないと言っても、ブラジルでは10本の指に入る人口を持つ市らしい。

2018年6月25日月曜日

お知らせ: K鳴狗盗

今までこのblogでは特にアナウンスしていなかったが、今年の3月、無KのKよりも気軽に更新できるblogとしてK鳴狗盗を開設した。特に推敲を経ていない文章や、ここで没にした記事、その他雑文などを載せてある。
https://k-makes-it.blogspot.com
読むに値するかどうかは別として、一応、存在するということはお知らせしておく。

2018年6月9日土曜日

不健康な食生活

私は一人暮らしをしているが、自炊中心で野菜を多く取り入れた食生活を送っている。その結果、私のSNSを見た人などに「健康的な食事をしているね」と言われることがしばしばある。しかし、これは誤解であり、その実態は極めて不健康なものと言わざるを得ない。事実、私は自らの食生活の結果、非常に頻繁に体調を崩しているのだ(*1)。そこで本稿では、読者への注意喚起も兼ねて、その原因となる食事と、それにより引き起こされる症状について解説したい。

(1)卯の花
卯の花は私の食卓に並ぶ代表的なメニューの一つで(*2)、よく豆腐屋で買った生のおからをだし汁で炊いて食べている。ところが、おから一袋の量が優に四、五人前はできるほど多いのに加えて、卯の花自体が美味しい料理であるために、つい食べすぎてしまう。そうすると、おからは食物繊維が豊富であるため、お腹がゆるくなるのだ。
こうして私は腹痛や下痢になっている。それでも卯の花をやめるのは難しい。

(2)牛乳寒天
熱湯に寒天の粉を溶かし、温めた牛乳とオリゴ糖シロップ(または砂糖)を加え、タッパーに移して冷蔵庫で冷やし固めると牛乳寒天が出来上がる。優しい味わいの中に清涼感が感じられる、暑い季節にはぴったりのおやつである。ところが、寒天の粉一袋で500 mL分のそこそこ多い牛乳寒天が出来上がるのに加えて、牛乳寒天自体がつるんとしていて食べやすいために、つい食べすぎてしまう。そうすると、牛乳の乳糖(*3)と寒天の食物繊維が合わさって、お腹がゆるくなるのだ。
こうして私は腹痛や下痢になっている。それでも牛乳寒天をやめるのは難しい。

(3)ガム
私は、XYLISH HYPER COOL (ミント味の黒いキシリトールガム)をほぼいつも大学に持って行って、ほぼ毎日食べている。これは、元々はその強い味で刺激を与え眠気を覚ます目的で食べていたのだが、何十箱も食べているうちにすっかり慣れて眠気覚ましの効果はあまり得られなくなってしまった。それでも、ガムを食べないと落ち着かなくなったり集中力が低下したりする禁断症状が現れるため、つい食べすぎてしまう。そうすると、キシリトールの効果でお腹がゆるくなるのだ。ガムの場合、1週間あたり50 gくらいのペースで食べていた頃はお腹どころか顎の調子まで悪くなっていた。そのため、今ではガム欲求の一部をミントタブレット(フリスクなど)で満たすようにしている(*4)が、お腹がゆるくなるのはミントタブレットでも同様である。
こうして私は腹痛や下痢になっている。それでもガムをやめるのは難しい。

そもそも、確かに私は野菜を多く食べていると思うが、これは好きで食べているという面が強く、健康のことはあまり意識していないのであった。振り返ってみれば、小学生の頃から人参の摂りすぎで肌がやたらと黄色くなる(*5)ような子供であった(*6)。私はあの頃から何も変わっていない。
読者諸賢におかれては、私を反面教師としていただいて、バランスの取れた真に健康的な食生活を送られるよう心がけてほしい。


(*1) 今もお腹が痛い。
(*2) 私は卯の花が好きである。高校の文化祭のクラス屋台で何を売ろうかという話し合いの際に卯の花を提案したこともあるのだが、速やかに却下された。
(*3) 私は牛乳も好きで毎週1.5 Lほど飲んでいるが、特に乳糖に強いわけではない。
(*4) ただし、はじめは単なるガムの代わりだったタブレットだが、今ではそれ以上の意味がある。こちらの方が味が強いため、刺激を得るのには優れている。
(*5) 柑皮症と呼ばれる。
(*6) そういえば、祖父もヨーグルトの食べすぎでお腹を壊していた。そういう家系なのかもしれない。

2018年6月2日土曜日

カラオケの定番曲

先日、友人とカラオケをする機会があった(*1)。その最中、「最近あんまり新しい曲を聞いてインプットしていないから定番曲しか歌えていない」と発言したところ、「定番曲とは......」と言われた。これは尤もな質問で、私にとっての定番曲は少々世間と乖離があるように思われる(そのせいでおいそれとカラオケに行くわけにはいかないのだ)上、自分でも自分にとっての定番曲を把握できているとは言い難い。そこで、この記事で自分がカラオケで入れがちな曲をまとめてみることにした。
以下のリストでは、曲名の後に歌手名等を付している。また、JOYSOUNDやDAMへのリンクも見つけられた限り貼ってある。タイトルだけではどういう曲なのか分からないものが多いであろうから、気になる場合はこれらの情報も使って自力で調べて頂きたい。

1. LA BAMBA (LOS LOBOS. JOY / DAM)
有名なメキシコ音楽である。ノリが良いので、比較的カラオケ向きだと思っている。

2. MONEY, MONEY, MONEY (ABBA. JOY / DAM)
お金が欲しいという気持ちで歌っている。

3. 信濃の国 (長野県歌. JOY)
友達がよく歌うので覚えた。しかし、私は長野県に行ったことがない。

4. Erlkönig (作詞:ゲーテ. JOY)
私が最も頻繁に入れる曲で、有名な「魔王」である。

5. DSCHINGHIS KHAN (Genghis Khan. JOY /DAM)
ドイツ語といえば、この曲もよく入れる。99 Luftballonsは目下練習中である。

6.ラジオ体操第一 (ラジオ体操. JOY)
その日の気分によって、「ラジオ体操第二」や「ラジオ体操の歌」で代えることもある。

7. エラトステネスの篩 (中尾ミエ. JOY)
素数を発見するためのアルゴリズムを説明した歌である。

8. 狩りから稲作へ feat.足軽先生・東インド貿易会社マン (レキシ. JOY /DAM)
縄文時代から弥生時代への移行をテーマにしたラブソングである。

9. Huwag Mo Nang Itanong (Eraserheads. JOY /DAM)
「フィリピンのビートルズ」こと(*2)Eraserheadsの曲である。私が唯一知っているタガログ語の曲である(いつの間にか知っていた)が、特にEraserheadsを代表する曲というわけでもないらしい。どうやら病人(喘息?)についての曲のようだ。

10. Dolly Song (HOLLY DOLLY. JOY /DAM)
なんともいえないが好きな曲である。

11. さなだ虫 (ブリーフ&トランクス. JOY /DAM)
なんともいえないが好きな曲である。

12. Therapy (group_inou. JOY)
なんともいえないが好きな曲である。

以上が主要なところだと思う。これらの他には、「出町柳から」「マツケン・マハラジャ」「逍遥の歌」などがある。これくらい挙げれば大体の傾向は掴めると思うので、もし私が好きそうだと推測される曲があれば、是非教えていただければ幸いである(*3)。

(*1)ちなみに、私は非常に音痴である。ついでにいえば運動音痴で、さらにいえば方向音痴のため、見事三冠を達成している。
(*2) Wikipedia による情報(2018/6/2閲覧)。
(*3) この記事の続編のような記事を、サブブログ「K鳴狗盗」で書いた(「好きなマンガ・書籍」)。

2018年6月1日金曜日

同窓会用の問題

2017年1月に、私の高校の同窓会があった。その同窓会での企画に使われた問題を公開する。

2018年4月28日土曜日

入試の思い出

時々、自分があの東京大学の学生であることを思い出して、信じられないなあという感想を抱く。東京大学を受験して合格したのだから確かに東京大学の学生なのだが、入試の日を思い出しても、よく受かったよなあと思ってしまう。

私は出願締め切りのギリギリまでどの大学を受けるか迷っていたので、ホテルの予約に難儀した。東京の地理感覚が全くわからず、本郷キャンパスから同心円上にビジネスホテルの空きを調べていって、見つかった中で本郷キャンパスに一番近いホテルを予約した。それが九段下のホテルだった。私はそれまで東京に行ったことが一度だけあった。今思えば東京のことはよくわかっていなかったのだが、当時の私は異常に自信を持っていて、まあなんとかなるだろうと思っていた。更に、その異常な自信のため、私は東京大学の他にどこも出願せず、受験の前日まで東京に行くことはなかった。
受験の前日、東京駅に行き、東京に住んでいたいとこと合流した。私は、受験の前日になって初めて九段下から本郷まで歩いて行くのが大変であることに気付かされた。そこで、地下鉄を使うことにして、いとこと地下鉄に乗る練習をした上で本郷キャンパスの下見をした。オープンキャンパスなども面倒で行かなかったため、私はこの時初めて東京大学を訪れたのだった。しかし、道中はいとこについて行くのがやっとで、何線に乗り換えなどがよくわからず、更にはSUICAを紛失し、私は東京の駅での乗り換えに不安を覚えた。いとこの助言を踏まえて、神保町から春日まで三田線一本で行くことにした。

翌日、私は予定通り起床し、出発した。春日駅に無事到着し、地上で周りを見回した。受験生らしき人は誰もいない。スマホの地図アプリを開き、本郷に行こうとするが、方向がわからない。交差点に政治家が立っていたので、方向を聞いてみたら教えてくれた。その通りに進んでいき、スマホの地図アプリで現在地を確かめてみると、進む方向が全然違っていたことが分かった。選挙権を得てもその政党には投票してやるものかと心に決めつつ、道を戻って、正しい方向へと進んだ。歩いて分かったのだが、春日駅から本郷への道は上り坂になっている。本郷までも微妙に遠く、ひ弱な私は疲れながら歩いていった。そういうわけで、途中で弁当を買って正門に着く頃にはギリギリな時間になっていた。受験生の姿はまばらで、焦りを覚えてもよかったのだが、私は特に焦りを覚えなかった。時錯の人から予想問題集をもらい、加えて握手もしてもらってウキウキで理学部一号館へと歩いて行った。握手を求められた時錯の方が「え、平社員ですけど.......」と困惑していたのをよく覚えている。
握手をしてもらえたのが嬉しくて、部屋に入って時錯の予想問題集だけ読んでいたらあっという間に国語の試験の開始時間になってしまった。試験自体は無我夢中だったのでよく覚えていない。

入試のことは今思い出してもヒヤヒヤさせられる。入学してから知ったことだが、本郷三丁目駅や東大前駅からなら人の流れがあってわかりやすかったらしい。何も知らず春日駅から行こうと思ってしまった自分の判断に愕然とした。それ以外も今の自分ならできない判断の連続である。よくこんなのでなんとかなると思っていたな、よくなんとかなったものだなと思いつつ、無知と無謀の恐ろしさを深く反芻せざるを得ない。

2018年4月1日日曜日

自己紹介

春なので、自己紹介をする。

好きな野菜: ゴーヤー
好きな春野菜: ふきのとう
2番目に好きな夏野菜: トマト
好きな秋野菜: 舞茸
好きな冬野菜: 大根
好きな工場野菜: 豆苗
嫌いな調味料: マヨネーズ
好きな態度: 怠惰
座右の銘: "Festina lente."
好きな飲み物: 牛乳
好きな牛乳: 低温殺菌牛乳
好きな乳製品: ヨーグルト
好きなカカオの摂り方: 豆乳ココア
好きな豆乳: ふくれんの「九州産ふくゆたか大豆 成分無調整豆乳」
好きな魚介類: 秋刀魚
好きな祖母の料理: 粕汁 ブリの照り焼き
好きでよく作る料理: ゴーヤーチャンプルー
好きな店: 豆腐屋
好きな豆腐の食べ方: 湯豆腐 ゴーヤーチャンプルー
好きなスーパー: オオゼキ下北沢店
好きな岩石: 石灰岩
好きな地形: カルスト地形
好きな目薬: サンコバ
好きな概念: 構造
好きなエネルギーの形態: 化学エネルギー
好きな図: 瀉血手術図
好きな絵画のジャンル: シュルレアリスム
好きなアニメ: 「帰宅部活動記録」「キルミーベイベー」「てーきゅう (特に、8期)」
好きな記号: 矢印
好きな約物: セミコロン
好きな四字熟語: 当意即妙 白砂青松 頭寒足熱
好きな言葉: 「遊んでいるのではない、遊戯をしているのだ」(友人の言)
代表的な趣味: キムワイプ卓球 銭湯巡り 無為
たまにやる趣味: 「読んだら自分は好むであろう本」の収集、京都大学訪問、クロスワード作り
カラオケに行くとよく歌う曲: ゲーテの「魔王 (Erlkönig)」, ブリーフ&トランクスの「さなだ虫」, group_inouの「Therapy」
好きな薬:  整腸剤
好きな現代文の教科書に載っていた文章: 「山月記」
好きな文法の参考書に載っていた例文: "You might as well talk to the wall as ask him for some advice."
好きな現代社会用語: レファレンダム
好きな地理用語: マルチメディア・スーパーコリドー
好きなオノマトペ: すごすご
好きな菓子: ガム(特に、XYLISH ハイパークール)
好きな風呂: 炭酸泉 露天風呂 檜風呂
苦手な風呂: 熱い風呂
好きなギリシャ文字: Κ
好きなアルファベット: K