2021年8月4日水曜日

政治の失敗は国民の失敗である

東京オリンピック開催の裏側で、新型コロナウイルスの感染が拡大している。政府が矛盾したメッセージを発し続けた結果、緊急事態宣言の効果は限定的なものに留まっている。今夏にオリンピックを開催すること自体には賛否両論あったものの、少なくとも今の日本政府にとってオリンピックの開催と市中での感染拡大防止の両立が無謀だったことに関してはほとんど異論がないだろう。
今秋までには衆院選が実施される。我々国民は、自公政権を選択し続けることの意味を今一度問い直さねばならない。もちろん、政権交代を起こせば全ては解決するなどと言うつもりはない。私が言いたいのは、何々党に投票しろだとか、誰それを応援しろだとか、そういった単純な話ではない。

積極的に投票したい相手がいない、といった意見をしばしば耳にする。自民党は自民党で問題を感じる一方で、野党は野党で弱くて頼りない。そこでとりあえずで自民党に入れておくわけだ。
私は、これはこれで理解できる意見だと思う。現在の野党が多くの問題を抱えていることは私も同意するところである。しかし、これで終わってよいのだろうか。そもそも、どこにも積極的に投票したいと思えないこの状況が異常ではないか。日本の人口が1億人以上あって、賢い政策を実行できる能力を持った人が一人もいないとは思えない。要するに、賢人は政治家になろうとしない、なったとしても大して評価されない、という現状がある。賢人にとって政治家が魅力的な仕事ではなくなっているのだ。

日本は国民主権の国であるから、いわば国民が国会議員の上司としての役割を担っている。政治の失敗は、政治家の失敗である以前に国民の失敗である。国民が政治家を選び、評価するのに失敗したから政治の失敗が起こるのだ。政府の失敗を目にしている今の我々は、政府を批判するのと同時に自分自身をも批判する必要があるはずだ。
選挙で何党に投票するのかという個々人の選択結果自体は、実はさして重要ではない。むしろ重要なのは、政治に関する情報を集め、吟味し、投票先を考えるというプロセスの部分だ。政治家を評価できるのは有権者だけだ。政治家によりふさわしい人物を政治の場に惹きつけ、彼ら彼女らになるべく正当な評価と報酬を与えるために投票するのだ。投票したい人がいない、で済ませてしまうのは思考停止ではないか。
政治の失敗は、単に政治家の失敗として人ごとのように片付けてよい問題ではない。国民は、政治の失敗を自らの問題として捉えるべきだ。政治家は選挙で選ばれるだけの存在であり、言ってみれば所詮国民の傀儡に過ぎない。日本の政治の問題は日本国民が解決する以外に手立てがない。
現在、政治参画に関する主体性の欠如が世間にうっすらと広がっているように感じられる。文書主義の軽視や国会の軽視といった国政の風潮、そしてそれを容認するかのような世論の反応を見ていると、この主体性の欠如が民主主義を根元から蝕み、やがては形骸化させていくのではないかと憂慮してならない。