2020年2月21日金曜日

人生の意味

[case 1]
私「幽霊のコアラしかいないコアラのマーチ ロッテ怖ラのマーチ」

[case 2]
私「えーっと......。大阪城に行くにはどっちに行けばいいんですかね」
Aさん「記憶が正しければこの道で合っているはず」
私「記憶……記憶って大事ですよね。記憶がないと自分が誰かも分からない。こうやって道を進むことによって、自分の記憶の正しさが次第に検証されていく。毎日とは記憶を確かめていく作業の積み重ねであって、その作業を通じて自分自身という存在もまた確かめられていく。そういう側面ってありますよね」

[case 3]
私「卵って殻さえ割らなければ10日間くらいは生で食えるからありがたいな 刺身も殻付きで売ってくれ」
帝華さん「条件を揃えるなら「生きたまま売ってくれ」では?」
私「その辺は大丈夫です おさかなさんはみんなの心の中で今も生き続けてるんで」

このように、私はしばしば意味不明な発言をすることがある。これらの発言にはほとんど意味がないのであるが、全く意味がないのではない。実は、このような無意味な発言の背後には私の人生観が隠れているのだ。
「私は何のために生きているのだろう?」「どうして宇宙は"ある"のだろう?」と考えたことはあるだろうか。かつての私はよく考えていた。そうして思索を巡らせているうちに見出した私なりの結論が、「私が生きるのは私が生きているからに他ならず、宇宙があるのは宇宙があるからに他ならない。私は何の意味もなく生きており、宇宙は何の理由もなく存在している」というものだった。
私の人生は本質的に無意味なのだが、その無意味さが意味することは絶望ではない。私が選んだのは、無意味さを嘆くことではなく、むしろ無意味さを人生の本質として肯定的に位置付け、無意味をこそ意味とすることだった。己の人生の無意味さを積極的に受け入れた上で、人生が無意味だからこそ日々を精一杯楽しく生きていこうという思想である。そして、そうした思想に基づいて生まれたのが上記のような発言だ。無意味な発言は私の人生のアナロジーである。これらの発言は無意味であるが、無意味な言葉を敢えて発することによって、無意味な発言の中に「実は人生のアナロジーになっている」という意味が生まれる。かくして無意味は意味へと転換する。これは無意味な人生に意味を見出すことに対応している。
一見意味がないようであるが、意味がないからこそ意味がある。いわばこれは「無用の用」ならぬ「無意味の意味」だ。ひょっとすると読者の方にとってはこの文章自体が意味不明だったかもしれないが、もしそうだったならこの文章には意味がある。その理屈はこの文章の中に書かれてある通りだ。この文章は、私の人生、私の目に映る世界全体の縮図と言っても過言ではない。そう、Kを自称する私にとっては、人生全体、そして宇宙全体が「無KのK」なのである。

2020年2月4日火曜日

「きのこの山」は山であってきのこでない

「きのこの山」という商品がある。クラッカーの先端に小さなチョコレートが付いたお菓子である。スーパーやコンビニなどで広く売られており、全国的な知名度も高い。
さて、「きのこの山」といえば、「たけのこの里」との確執がよく取り沙汰される。いわゆる、きのこたけのこ戦争だ。しかし、これは作られた争いに過ぎない。私には、真に問題とすべき事柄が他にあるように思えてならないのだ。
我々は幼少期から「きのこの山」を見て育ってきたため、「きのこの山」が「きのこの山」であることに疑いを挟む者はほとんどいないだろう。だが、私はこうした風潮に異議を唱えたい。

なぜ「きのこの山」は「きのこの山」であって「山のきのこ」ではないのだろうか?

「きのこの山」は、一見きのこを模した形状をしているように見える。だが、その商品名が伝えることは、「きのこの山」は山であってきのこではないという事実だ。カノッサの屈辱は屈辱であってカノッサでないし、時のオカリナはオカリナであって時ではない(*1)。ここで、明治の「きのこの山」公式サイトの説明をもう一度注意深く読んでもらいたい。そこには、「きのこの山」がきのこであるとは一言も書かれていない。「きのこの山」はあくまで山なのである(*2)。これは非常に直観に反している。
私は、この事態を明快に説明するための仮説を一つ考えた。「きのこの山」は、山は山でも火山なのではなかろうか。つまり、チョコレートの部分が人間に見えている「山」の部分で、クラッカーの部分はマグマだまりなのである。その証拠に、クラッカーがチョコレートの山の中にまで入り込んでいるではないか。チョコレートの形状を見るに、これはドーム状火山だろう。相当粘性の高い溶岩であったことが伺われる。爆発も激しかったに違いない。
環太平洋造山帯に位置する日本は、大小様々な火山を多く擁する火山大国であると言われている。火山は温泉や地熱発電といった恵みをもたらす一方で、しばしば噴火によって甚大な災害を引き起こす。古くから日本人は火山に畏敬の念を抱き、火山と共に暮らしてきた。都市を高度に発達させた現代の日本人にとって、もはや火山は身近な存在ではないかもしれない。だが、たとえ都市部に住んでいたとしても、コンビニに行けば「きのこの山」が置いてあるではないか。私には、「きのこの山」を見ていると古来からの日本人の精神性が伝わってくるように感じられる。そう、「きのこの山」とは「きのこの(ような形をした火)山(の模型)」のことに他ならず、親しみやすいお菓子の形をとって国民の地学教育に資することを目的として開発された商品だったのである(*3)。

さて、このブログの読者の皆さんも地学に興味が湧いてきただろうか。地学といえば、地学部に所属する女子高生たちの青春を描いたアニメ「恋する小惑星」が現在絶賛放送中である。ワクワクとキラキラが詰まった素晴らしい作品である「恋する小惑星」を、どうかよろしくお願いしたい。

(*1)同様に、無用の用は用であって無用ではないし、無KのKはKであって無Kではない。風の谷のナウシカは谷のナウシカであって風ではないし、もののけ姫はけ姫であってものではない。きのこの山はこの山であってきではないし、たけのこの里はこの里であってたけではない。
(*2)「きのこの山」1パッケージには、「きのこの山」がたくさん入っている。従って「きのこの山」1パッケージは「きのこの山の山」である。「きのこの山」のパッケージを山積みにしたものは「きのこの山の山の山」である。こうして山々言っていると「ヤマノススメ」が見たくなってくる。せっかくなので、「ヤマノススメ」もどうかよろしくお願いしたい。
(*3)「たけのこの里」は......。えーっと。里山保全とか、生物多様性の尊重とか、なんかそんな感じのやつだろう。

関連記事: きのこの山(こまいどの徒然流線日記)
今回の記事執筆のきっかけとなった記事である。

2020年2月1日土曜日

新年のスピーチ

数週間ほど前、大学の友人からある相談を受けた。彼は部活動のコーチをしており、部の新年会でスピーチをしなければならないというのだ。相談の中身は、そこで話す内容を考えてほしいというものだった。ちなみに新年会はOBも集まるややフォーマルな場だそうだ。
私が考えたのは次のようなものである。
新年あけましておめでとうございます。
新年といえば「一年の計は元旦にあり」という諺がありますね。今年を実りあるいい一年にするためにも、始めに目標を立てておくことは大切です。詳細は省きますが、私も年が明けてから今日までに今年の目標を1024個立ててきました。
さて、皆さん「カオス」という概念はご存知でしょうか。例えばボールを持ち上げてパッと手を放したとき、ボールは「落ちる」という動きをするでしょうね。あるいは夜空に浮かぶ月に関しても、ずっと地球のまわりをぐるぐるぐるぐる回っているだろうというのはおおよそ予測がつくことです。ですが、「動きに予測がつく」ことは当たり前のことではありません。これらの現象の場合、地球とボール、地球と月というように、主に関わっている物体はせいぜい2つしかありません。ところが、3つ以上の物体の運動を考えるとなると、途端に話が変わってくるのです。19世紀の数学者ポアンカレは、3つの天体による運動を研究する過程で、それらが非常に複雑な軌道を持ちうることを発見しました。そこでは、ほんの少し初期値が違うだけで物体が全然違う動きをするのです。最初の状態がほんの少し違うだけで未来が大きく変わってくる、こういった性質で特徴付けられる系は「カオス」と呼ばれ、盛んに研究が行われてきました。 部活動もこれと同じです。ほんの少しの初期条件の違いが、やがては大きな違いとなって現れるのです。何事もはじめが肝心です。一年の計は元旦にあり。年が明けた今、しっかりと目標を立てて、いい一年にしていきましょう。

 ......はい。皆さんは今の話を聞いて何か違和感を感じましたか?なんとなくそれっぽく話してきましたが、よくよく考えてみてください。カオスと我々の部活動には別に関係がないことに気付くと思います。3つの天体の軌道がカオスになるからといって、だから何だという話です。それに、仮に初期条件の違いが後々大きな違いを生むとしても、だから目標を立てるといい一年になるのだというのはあまりに論理が飛躍していて、いくらなんでも意味不明です。
この私が代表的な例ですが、世の中にはいい加減なことを言う人がたくさんいます。いい加減な人のいい加減な話に騙されることなく、自分の頭でしっかりと考えながら、効率的にトレーニングをしていきましょう。
私からは以上です。ご清聴ありがとうございました。
 友達は答えた。
 「相談する相手を間違えた」