「可愛くてごめん」という曲が流行っているようだ。
可愛くてごめん feat. ちゅーたん(CV:早見沙織)/HoneyWorks
先日、レンタカーを借りて友人とドライブをした(*1)。そのときは車内のスピーカーで最近の日本のヒットチャートをかけていて、色々と流行の音楽の話をしていた。私はほとんどの曲を知らなかったのだが、3つほど聞き覚えのある曲があった。一つは「ミックスナッツ」であり、もう一つは「ギターと孤独と蒼い惑星」であり、そして最後がこの「可愛くてごめん」である。私はこの曲をKazuya Mishimaの音MAD動画(*2)で知ったのだが、他の友達はTikTokで知ったと言っていた。完全に知り方を間違えていて恥ずかしくなった。
それはさておき、この曲の歌詞の話をしたい。基本的には「自分の好きな服を着よう」「自分のファッションセンスを信じて自分の"好き"を肯定してあげよう」という趣旨の歌だと思うのだが、よくよく聞いてみると、どこか内面の不安が歌われているようにも感じられる。相当に他人の視線を気にしているようで、曲に込められたメッセージを自分に言い聞かせているような印象すら覚える。
私は無地の白のシャツをユニクロで5, 6枚買ってローテーションしているくらいにはテキトーなファッションの人間であり、最初に聞いたときは「ふーん、こんな曲が流行っているのか」という程度の感想しか抱かなかった。だが、「内面の不安」を歌った曲なのではないかと思った瞬間、この曲にかなり引っかかるところができた。身に覚えがあるからだ(*3)。
2月6日、トルコ・シリア大地震が発生した。私は被害状況の報道に触れて心が痛み、UNHCRへ追加の寄付をした。そのときに投稿したツイートが以下である。
ここらで善人アピールでもしておこうかな pic.twitter.com/XTZ1WqS5d0
— K. 汝水 (@tactfully28) February 8, 2023
ただ支援を呼びかけたかっただけのはずが、どうしてこうなるのだろう。これこそ自分への批判者の思考の内面化の典型例ではないか。そもそも、私は自分の寄付に対して偽善だの何だの言われたことはない。存在しない批判者を頭の中で作り、それを皮肉るような形でしか寄付を呼びかけることができない。寄付を善人アピール呼ばわりする人が一重の捻くれであれば、私は二重の捻くれ者だ。そして、私は「可愛くてごめん」の歌詞にもこの「二重の捻くれ」を感じる。
特に何とも思っていなかった歌詞が、にわかに共感できる内容と思えるようになった。これがいいのか悪いのかはよくわからない。もっと自分に素直になれればそれに越したことはないだろうし、二重に捻くれてしまった自分自身にはため息が出る。ファッションの話題で二重の捻くれが出る「可愛くてごめん」は実際可愛いもので、多数の死者が出ている深刻な話題で二重の捻くれの態度をとってしまうのは深刻だ。捻くれている場合ではない。
まあ私のようなどうしようもない人間のことは置いておこう。被災地では、地震を生き延びた人の命も厳冬に脅かされているという。二次被害が少しでも小さくなるよう、そして被災地の速やかな復興が実現するよう、心から願っている。
(*1)途中で運転を代わるはずが、前日になって私の運転免許証が失効していることが判明した。とんだ阿呆である。
(*2)音MADというと著作権の問題が気になる。一方で原曲にはない新しい価値が生まれているのも確かであり、一つの文化として法律的にクリアな在り方が確立してくれるとよいなと思う。
(*3)身に覚えがあるからこそ、「可愛くてごめん」をこう解釈してしまうのかもしれない。全く見当違いの考えかもしれないが、許してほしい。