2025年2月2日日曜日

節分の日に具がキュウリだけの太巻きが出てきたら嫌だ

節分の日に具がキュウリだけの太巻きが出てきたら嫌だ。節分の日に具がキュウリだけの太巻きが出てきたらどうしよう。もしそうなったら、恵方巻きなんてのんきなことを言っている場合ではない。具がキュウリだけの太巻きを前にした私に、もはや恵方を向いている余裕はない。恵方がどこかなんて知るよしもない。具がキュウリだけの太巻きは全く縁起物ではない。具がキュウリだけの太巻きは恐ろしい。

具がキュウリだけの太巻きを一度想像してみてほしい。具がキュウリだけの太巻きは、ご飯だけの太巻きよりも貧しい。食卓に寿司がなく、ただご飯と海苔とキュウリが並んでいる様子よりも更に貧しい。具がキュウリだけの太巻きから漂う「貧」のオーラはすごい。
なぜ素材の状態よりも「貧」のオーラが増しているのだろうか。節分の日に具がキュウリだけの太巻きを見せられると、どうしても我々の脳裏には「本来用意したかったもの」が浮かんでしまう。つまり、キュウリに、卵に、カンピョウに、何かの魚介が入った、具沢山の太巻きである。しかし、その夢は叶わなかったのだ。当たり前だと思っていた日常は、決して当たり前のものではない。何せ、ここにはキュウリしかない。「欠如」である。具がキュウリだけの太巻きは、欠如の象徴なのだ。

問題はそれだけではない。具がキュウリだけの太巻きを食べてみるといい。

— ボリッ

キュウリが太すぎる。具がキュウリだけの細巻きは既に普及しており、それはかっぱ巻きと呼ばれている。かっぱ巻きがなぜ美味しいのかというと、食感が小気味いいからだ。かっぱ巻きと具がキュウリだけの太巻きを食べ比べると、その差は歴然としている。

— シャクッ

— ボリッ

ボリッは違う。ボリッは別に食べたくない。ボリッを求めているならボリビアにでも行けばいいのであって、具がキュウリだけの太巻きなんて食べなくていい。しかもキュウリがやたらに太いと醤油に合う気もしない。これだから具がキュウリだけの太巻きは嫌だ。節分の日に具がキュウリだけの太巻きが出てきたら、もうどうしようもない。

ともかくそういうわけで、私は一回ボリビアに行ってウユニ塩湖やフラミンゴを見てみたいなと思っているのである。

2025年1月19日日曜日

モルディヴはどんな場所なのだろう

先日、知人と話した。彼は今度モルディヴに旅行に行くそうだ。

モルディヴというのはどんな場所なのだろう。「モル」で「ディヴ」だから、筋骨隆々、攻撃的で強そうな雰囲気がある。犬でいえば「チワワ」ではなく「ドーベルマン」、ファミレスでいえば「サイゼリヤ」ではなく「びっくりドンキー」、化粧品メーカーでいえば「資生堂」ではなく「マンダム」である。おそらく、立派な髭を蓄えた大男が巨大な熊などを倒しながら生活している集落なのだろう。
「モル」は「盛る」に通じるから、モルディヴの住民はガツガツと大量のご飯を食べていると推測できる。日本でも、「盛岡」の住民は胃袋が満タンになるまでわんこそばを食べ続けており、非常に強い。盛岡くらいのモルディブさでも大量のわんこそばを平らげているのだから、モルディヴくらいモルディヴになってくると、生の熊肉一頭分を平らげていてもおかしくない。

このように、モルディヴは「モル」で「ディヴ」なわけである。では、その対極は何になるだろうか。チワワだろうか、サイゼリヤだろうか。私見だが、おそらくそれは菊川怜だ。菊川怜は、日本で最も非モルディヴ的な人物だと思う。菊川怜は「キクカワ」で「レイ」である。どうにも食が細そうだ。「ビビンバ」や「カツ丼」などは一切食べずに、「アクエリアス」「氷」「霧」だけを食べて生きていそうなイメージがある。

従って、菊川怜がモルディヴに行くとは到底考えられない。私の推理によれば、私が話した知人は、菊川怜とは異なる人物に違いない。