2019年2月24日日曜日

先ずKより始めよ

政治家の発言にせよ、SNSにおける投稿にせよ、不確かな情報に基づいて強い口調で語られる極端な意見が人気を集めているのを見るたびに悲しい気持ちにさせられる。ポスト・トゥルースの時代と言われるように、今やフェイクニュースは瞬く間に市民社会を駆け巡る。このことは市民の投票行動にも大きな影響を与えており、昨今世界的に見られる排外主義の台頭はその象徴であるとされる。
このような事態を打破する上で有効な手段は、やはり教育であるだろう。市民一人一人が高い水準の教育を受け、自らの知識に立脚した批判的思考力と他の専門知への敬意を身に付ければ、市民社会でしっかりとした集合知が形成され、民主主義がうまく機能するようになるはずだ。しかし、現状ではこういった視点は欠けているように思われる。大学教育における実学重視の傾向からもわかるように、むしろ教育は高い給与を得るための手段という側面が強い。この状況がもたらすものは、学習の動機の不足である。つまり、皆が物事を学び考えれば社会全体として利得が増加するにも関わらず、個々人としては思考を放棄して他人の知にフリーライドすることが有効な戦略たり得てしまうわけだ。これは市場の失敗である。
どうしてこのようなことが起こるのだろうか。それは外部経済性の概念で説明できる。外部経済とは、市場を通さず他者にプラスに働く効果のことだ。外部経済の例として、果樹園に対する養蜂家の関係を挙げることができる。養蜂家は、蜂を育てることで自然にその近くの果樹の受粉を手助けする。しかし、養蜂家は果樹園の利益まで考えて蜂を育てるわけではないため、蜂を増やせば養蜂家+果樹園全体としては利得が増加するにも関わらず、蜂の過小供給が発生するのである。そして、「教育→民主主義の成功」の流れが示している通り、学習することは外部経済性を持つ。その結果、思考訓練を受けた人材は過小供給される。これが今の社会で起こっていることだ。
外部経済性の問題にどう対応すべきだろうか。これにはピグー税と呼ばれる考え方がある。これは、プラスの効果を持つ外部経済には補助金を与え、マイナスの効果を持つ外部不経済には税金をかけるというものだ。すなわち、高い水準の教育を受ける者に政府が公的に補助金を出せば良いということになる。
そうはいっても、これでは基準が曖昧で誰に補助金を出すべきかわからないではないか、と思われるかもしれない。しかしその問題の解決は簡単だ。結論から言えば、補助金を受け取るべきはこの私である。私は東京大学の学生であり、ほとんどの市民は東京大学の教育は高い水準にあるという主張に同意してくれるだろう。そして、「先ず隗より始めよ」というように、こういうものは言い出しっぺを優遇するのが最良なのである。だからまずは私である。少々心苦しいが、世界平和のためなら仕方がない。補助金を甘んじて受け入れる覚悟はできている。
読者の皆様も、人類のためだと思ってどしどし私にお金を渡してくだされば幸いだ。一切の遠慮は無用である。ご連絡をお待ちしている(*1)。

(*1)筆者は「人類のためにも私にお金を渡すべきだ」と主張しているが、本当にそうだろうか。批判的思考力を持つ賢明な読者ならば、この文章のロジックのどこがおかしいかにすぐ気が付いたことだろう。そう、世界平和が実現すると人類は滅亡するのである。

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