2017年3月21日火曜日

奇跡を考える

 先日、次のようなツイートをした。
「あなたと僕が出会えたのは奇跡」とか「お父さんとお母さんが奇跡的確率で出会ったおかげで私がいるんだ」とか言いますけれど、それを奇跡といえるならこの部屋に空気分子たちが今この位置と運動量で存在していることが奇跡ですよ。
この世界には膨大な人がいるわけで、その中で父と母が出会って私が生まれるというのは確かに確率的には低いこと、すごい偶然には違いない。しかし私はそれを奇跡だとは認めない。確率的な低さをいうなら、空気分子たちが今この位置と運動量で存在していることも猛烈に低い確率である。あるいはトランプのカード53枚を適当に並べ替えてみてほしい。その並び方になる確率も1無量大数分の1くらいの確率だ。しかし1無量大数分の1の奇跡とは、普通言わない。
ある事象が珍しいと見なされるためには、実現される状態が確率的に低い状態なだけでは不足で、実現される状態が特別であることが必要である。例えば、部屋にいる空気分子たちが皆部屋の左半分に存在してしまって、右半分にいる人が窒息してしまえばこれは珍しいことだ(*1)。あるいは、トランプのカードを適当に並び替えたのに、マーク別に1~13まで綺麗に並んだとすればこれも珍しいことである。この理論でいけば、自分の存在が奇跡になるのは、自分が世界の歴史に名を残すほどの天才であるときくらいだと言えるだろう。したがって自分の存在を奇跡だと言って憚らないのは大抵の場合不遜である。

それでも「自分の存在が奇跡」だとよく言われるのは、実現される状態がある意味で「特別」であるからに他ならない。「特別」について、私は次のようなツイートをした。
この世界に客観的な価値はなく、主体たる自分が何かを特別視し、それに意味を与えることで価値が生じる。この世界で私は客観的な特別ではないが、私の世界の原点だという点で私は私にとって絶対的だ。この絶対性が全ての特別性の根源であり、私が見る世界の事物に価値を与えられるのは私しかいない。
 前の記事で考察したように、私が唯一信頼できるのは私の存在だけだ。したがって私にとっては私こそが全ての出発点となる。ツイートではこのことを「私は私の世界の原点だ」と表現した。客観的かつ物理的な存在としてのこの世界は、その中に価値を持たない。価値や意味が存在するのは、私を通してみた世界の中、私の主観世界の中だけである。
「私の存在が奇跡だ」と言うのは、その実「私にとってはこの私の存在が特別である」と表明することに他ならない(*2)。確率の高低、珍しいかありふれているか、は本質的でない。私の特別性こそが最も重要である。特別視ならどんなにありふれたものに対してもできる。私がどんなに凡庸な人間であろうとも、私が平凡以下の人間であろうとも、私にとっては私こそが特別だ。
「あなたと僕が出会えたのは奇跡」にしてもそうだ。確率が低いという余計な情報を付け足すと本当に重要なことがぼやけてしまう。ただ「あなたが僕の特別です、あなたのおかげで幸せです」といえばよいのだ。
ただ、問題は私に「あなた」がいないことである。

(*1)ただし、実現される状態が望ましくなければ、普通奇跡とは呼ばれない。
(*2)従って、ただトランプのカードが適当に並んだだけの人間に「僕の存在は奇跡なんだ」と言われたとしても、「そうですか」としか言いようがない。

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