2017年5月26日金曜日

「お花を摘みに」

以下の文章では、排泄について扱う。汚い話が苦手な方は、読まないことをおすすめする。

2017年5月19日金曜日

自己PR

ある友人が自己PRを書くという授業内課題で悩んでいるのを見かけた。彼は宗教(特にオウム真理教(*))への関心が高く、そのことについて述べたところ「不謹慎」と酷評されてしまったそうだ。
私が彼と親しい人間であるのは、彼と似たところがあるからだろう。私も自己PRを書けと言われたら困ってしまう。しかし自分の苦手なことでもあえて取り組んでみようではないか。不謹慎でない自己PR文を完成させてみせよう。そう思って簡単な自己PRを書いてみたところ、次のような文章が出来上がった。


私が得意なことは、何かにつけてメタ的に思考することです。といってもどういうことかわからないでしょうから、これから具体的に私のメタ的思考とはどういうものかお見せしたいと思います。
これは自分をPRするために書いている文章なのですが、自分をPRしろと言われてもこれは簡単にできるものではございません。そもそも世界には70億人もの人間がいるわけですから、その人を構成する要素の組み合わせとしてオンリーワンになるのならともかく、ある特定の分野で秀でてナンバーワンになるということは大変困難なことだと推測されます。私は天才ではありませんから、コレコレの分野で私はナンバーワンです、と申し上げることはできません。これは他の学生にとっても同様でしょう。それでも自己PRというのは多くの人がやっていることです。このことは、自分をPRするにあたって、何かでナンバーワンである必要はないということを示唆しています。
ではナンバーワンでないなら何を以って自分の特性を他者にPRしているのでしょうか。おそらく、ナンバーワンよりも条件をもっと緩めて、「珍しさ」をPRしているのだと思います。例えば、学生のうちに粘り強くスポーツに取り組んでこれこれの成績を収めた、というお話は、その成績を取れる人が、あるいはそれほどの粘り強さを持った人が、ちょっとやそっとでは見つけられない珍しいものだから価値があるのだと考えられます。このように、多くの学生は、自分を逃すとコレコレの点において自分ほど秀でた人はなかなか見つかりませんよ、ということを言って自分をPRしているのです。
さて、こうして自己PRとはどういうものかについて色々論じあげてきたのですが、こうした文章を書くというのが、私は自分の得意とすることだと考えております。つまりどういうことかと言いますと、例えば「自己PRをしてください」と言われた時、私は自己PRを行う前にあらためて「自己PR」という枠組みを問い直して自分が何をしようとしているか考える、ということを行う習性があるのです。この、根本からしっかり考え抜くという姿勢を持った人は、私以外で見つけることは結構難しいのではないかと自負しております。
さきほど、「自己PRを行う"前"にあらためて「自己PR」という枠組みを考えた」、これが私のアピールポイントだと申し上げましたが、これには少し語弊があります。なぜなら私の自己PRとは「あらためて「自己PR」という枠組みを考えた」ことそのものであり、これは「自己PR」の前に行われたことではないからです。同時進行というのも少し違います。というのも、この文章の中で、自己PRをすることと、自己PRをすることについて考えることは完全に一体となって行われていたからです。この2つが一体となった文章を生み出した思考方式が、私が「メタ的思考」と呼んでいるものです。メタ的、というのは、「「自己PR」について考えること」それ自体が私の「自己PR」になっているというある種自己言及的な構造のことを指して申し上げております。
何やら複雑なことを申し上げましたから、だんだんこんがらがってきたかもしれません。あなたがこの文章をすんなりと理解できずこんがらがっているとすれば、それはあなたは今普段ならしないような思考方式をしているからだと思います。このことは私のような存在の「珍しさ」を示唆しているといえるのではないでしょうか。普通の人ならあまりしないような思考経路を持っている、その「メタ的思考」こそが私のPRしたいポイントなのです。

一口に自己PRといってもその内容は書く人次第で様々であろう。しかし内容は様々でも形式は案外画一的なものである。私はそこに目をつけて、形式と内容の両面から自分を表現するという差別化戦略をとった、というわけである。

(*)cf. 「卒業式

2017年5月6日土曜日

忘憂

タスクが多い。
常に多くのタスクがあるため、ほぼ全ての遊びは「タスクを放置してする遊び」となってしまう。従って、遊んでいる最中がいくら楽しかろうとも終わればつらい気持ちになるし、遊んでいる最中に急に楽しさが失われてしまうこともある。薬物は一時的に快楽を与えるが、効果が切れると苦痛を覚えるのと同様である。
憂いがあるため忘憂を必要とする一方で、憂いがあるために忘憂が妨げられる。忘憂は実にパラドキシカルな行為だと思う。忘憂とは止揚である。休憩の難しさとは、止揚の難しさに他ならない。

ここのところ常に焦燥を抱えていて、余裕に欠ける。もっと遊びや寄り道を大切にしたい。ゆったりと生きたいものだ。余裕の喪失は彩りの喪失である。
この記事も、こんなもの書く暇があればレポートを先に書くべきだろうに自分は何をやっているのだろうと思いながら書いている。