2017年5月26日金曜日

「お花を摘みに」

以下の文章では、排泄について扱う。汚い話が苦手な方は、読まないことをおすすめする。


排泄は汚い。それゆえに、排泄を直接的に表現することは避けられる。そしてそこに、婉曲表現の文化が生まれる。そこで、この記事では排泄の婉曲表現について考えてみたい。

この記事では「お花を摘む」という表現に注目して論じる。これは基本的に女性が使用するとされる表現で、山でしゃがんで用を足す姿がお花摘みに似ていることが由来だそうだ。
しかしその説明で納得するのは少々待っていただきたい。我々の屎尿には様々な養分が含まれており、野山で排泄すればそれは肥やしになるはずだ。となると、用を足すことは自生している植物を奪い取るような「収奪」行為ではなく、むしろ植物の生育を促進する「栽培」行為に近いのではなかろうか。花の命を絶つのと、花の命を育むのとでは正反対である。上品に表現したつもりが、実態より残虐性が増加してしまっているのだ。これは由々しき問題である。
この乖離は一体どのように解釈すれば良いのだろうか?この問いに対して、私は三通りの仮説を考えてみた。以下に披露してみたい。

[1] 第一の説は、「用を足すときに、比喩ではなく実際に花を摘んでいる」というものだ。
野山では紙がない。そこで花弁の大きな朝顔などの花を探しに行き、その花を摘んで肛門や泌尿器の清潔を保つのに使うのである。もちろん適当な葉を使ってもよいのだが、花は葉と比べて柔らかいという点で優れている。ゆえにまず探すものは花である。葉は適当な花がなかったときに仕方なく使うものだ。結局花があろうとなかろうと探すのは花なのだから、「お花を摘みに」行ってくる、という表現は妥当だろう。
もしかすると、花を数枚摘むどころか、「お花を積」んで、仮設トイレを作っているのかもしれない。積み上がるほど摘めば、用を足すたびに環境破壊だ。実態が相当残虐な行為ということになるから、「お花をつむ」で十分その残虐性を隠せていると言えるだろう。
なお、尿意は便意よりも高い頻度で訪れること、及び男性は排尿時に紙を必要としないことに注意すれば、この説は「お花を摘む」という表現がより女性に好まれることも説明していると考えられる。

[2] 第二の説は、「"鼻をつまむ"が変化したもの」とするものだ。
排泄物の臭いに対する抵抗として、鼻をつまむというのは一般的行動である。ここで注意して欲しいのは、「つまむ」は「摘まむ」とも書くことである。「つまむ」は、言葉として「摘む」と非常に近いわけである。「鼻」は「花」と同音であるから、「鼻をつまむ」が何かの拍子で「花を摘む」になったとしてもおかしくないと考えられる。
誰かが「鼻をつまんで用を足してくる」と冗談半分に言ったものが、「花を摘む」と勘違いされ、上品な言い回しとして広まったのだ。

[3] 第三の説は、「生態系から自らを切り離そうとする昨今の人類社会への警鐘」とみなすものだ。
人類社会は清潔な排泄の確立に向け様々な工夫を凝らしてきた。上下水道が整備され、水洗トイレが普及し、衛生環境は劇的に改善した。しかしその光の一方で、本来排泄物が持っていたはずの「肥やし」としての役割は失われてしまったのだ。かつての社会では、屎尿は土に還り、作物を実らせることで再び我々のもとに戻ってきていた。しかし現代の社会では、屎尿は畑ではなく下水処理場で分解される。下水汚泥の一部は緑農地に還元されているが、埋め立てされる割合も大きいのが現状である(*)。屎尿が社会を循環しないばかりか、処理が不十分な下水が海に流れ込み、赤潮を発生させ生物の死滅を引き起こした例もある。
このことを予見した先人は、排泄することの婉曲表現の中に、生態系から自らを切り離そうとする人類社会への警鐘の意を込めたのではなかろうか。本来「花を育てる」はずの排泄行為は、より上品になろうとしていく人類社会の中で、「花を摘み取る」ものへと変化していく。この危険性に一人でも多くの人に気づいてもらおうと、先人は山から出て社会に交わり、「お花を摘む」を排泄の婉曲表現として広めて定着させたのだ。
現代の社会は上品さを志向する。しかしその上品さは、その内面に生物の死滅をも招く暴力性を隠し持っている。この暴力性を言い当てたものこそが、「お花を摘む」という表現だったといえよう。

私の仮説はいかがだったであろうか。読者諸賢におかれては、それぞれの妥当性を比較検討していただきたい。この記事を、社会や文化における排泄物の役割を再考するきっかけとしていただければ望外の喜びである。

(*)「下水汚泥の有効利用に関する調査」の図3参照。(2014年度 下水道新技術研究所年報. 最終閲覧日2017/5/26)

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