2019年3月24日日曜日

だから私は「おはよう」と言う

挨拶することは、一般に良いことだとされている。皆さんの記憶の糸を手繰ってもらいたい。小中学校には、挨拶運動、挨拶奨励スローガン、挨拶ポスター、独立行政法人日本挨拶推進機構、挨拶監視パノプティコンなどがあったことだろう。ACジャパンの有名なCMに「あいさつの魔法。」というものもあった。これも挨拶を奨励する内容である。
確かに挨拶は良いものだ。挨拶は人と人との繋がりを生む。爽やかな挨拶に気分が良くなったり、優しい挨拶に心が温かくなったりすることもあるだろう。しかし、こうした挨拶奨励社会の中で、我々は見落としてはならないことを見落としてしまっているのではないだろうか。挨拶の効能を教育され、挨拶は素晴らしいものだと理解すれば、人はみな挨拶できるようになるのだろうか。
否だ。挨拶は難しいのである。


友人に会ったとき、第一声で何と言うのが正解か、という問題がある。これが朝なら簡単だ。「おはよう」と言えばそれでよい。その友人と長らく会っていない場合、「久しぶり」を使うこともできる。しかし、毎日顔を合わせているような友人と夕方に顔を合わせてしまったら大変である。私は何と言えばよいのだ。

代表的な昼の挨拶は「こんにちは」である。しかし「こんにちは」はよくない。「こんにちは」は硬すぎる。「こんにちは」の後に続くべきは敬語だろう。「こんにちは。今日もいい天気ですね」なら問題ない。だが誰が、「こんにちは。4限の授業のレポートもう解いた?」と言うだろうか。これは一体どういう距離感なのだと思案してしまう。
「こんばんは」は尚更悪い。小学生の頃、「こんばんは」なんて町内会の回覧板を渡すときくらいしか使わなかった。私にとって、「こんばんは」はご近所づきあい程度の遠さを持った挨拶である。「こんばんは」はとにかく良くない。

「やあ」はどうか。「こんにちは」よりは幾分良い。しかし「やあ」は挨拶としては短すぎはしないだろうか。「やあ」というのは、「ヤー」である。子音と母音、それぞれ一回しか発音していないのだ。そんな挨拶が許されるのか。最も基本的な間投詞の1つ、肯定の言葉「はい」ですら子音1つに母音2つを含んでいる。それに比べて「やあ」は何だ。「あ」なんて「や」に既に含まれているaの音を惰性で伸ばしているだけではないか。「やあ」を考えた人は、ちょっと投げやりが過ぎるのではないだろうか。だからと言って「やい」と言ってしまったら、それはもう「やい、金を出せ」と続けるしかないのである。
「やあ」の後に続けて「(誰それ)か」、と名前を呼ぶこともあるだろう。ただ、「やあ、(誰それ)か」と言うのは、考えてみれば妙である。「か」と言われても、何が「か」なのか。そんなことを聞かれても困ってしまう。「おお、【如才】か」「あ、【如才】じゃん」と言われて、困惑気味に「うん、その通り。君の認識は正しい」ないし「如何にも自分は隴西の【如才】である」などと答えようものなら、決まって相手は私以上に困惑した表情を浮かべるのだ。何なんだこのやり取りは。

「Hello」はどうか。「こんにちは」よりもフランクで、一見したところ好印象である。実際、一時期は挨拶に専ら「Hello」を使っていた。しかし、よくよく考えてみればこれは英語である。ややもすると忘れてしまいがちではあるが、「Hello」は日本語ではないのだ。「Hello, 4限の授業のレポートもう解いた?」なんて聞かれたら、「いや、まだ」と答えようものか、「No, not yet」と答えようものか迷ってしまうではないか。
これを「Hi」にした暁には最悪だ。「Hi」はフランクすぎる。「欧米か!」のツッコミとともに頭を叩かれても文句は言えない。これは嫌だ。挨拶がやたらにフランクなやつと思われるのは、もはやこの際どうでもよい。頭を叩かれるような事態だけは避けねばならない。頭を叩かれるのは心底嫌だ。なぜならば、頭を叩かれたら頭が痛くなるからである。
それに、日本で相手が「Hi」と挨拶してきたら警戒してしまう。相手がいきなりハグしてくるかもしれない。いきなりハグしてきたらそれはきっと欧米だろうが、ハグされてしまっては「欧米か!」と言って相手の頭を叩くこともできないわけで、「Hi」はたいそう危険である。
英語以外の言語を選んだところで、何も問題は解決しない。「你好、4限の授業のレポートもう解いた?」も妙であるし、これが「வணக்கம்」になってくると、いよいよ誰も理解できない。

こうして私の挨拶は非常に複雑な変遷を辿ったのだが、最近は「おはよう」に落ち着いている。私は時間帯によらず「おはよう」と言う。「おはよう」は良い。どこか爽やかな響きを持っていて、今日もまだまだこれからだという気持ちにさせてくれる。「おはよう」は青春的なみずみずしさを持った挨拶である。
早いか遅いかは、太陽によって決まるのではない。それは自分が決めるのだ。主観世界は感覚が全てである。

(関連記事: 「構造と価値」

2019年3月23日土曜日

見るということ

昨日、高校のときの後輩と待ち合わせをして会った。
「久しぶり。一年ぶりか」
「先輩、院試合格おめでとうございます」
「ありがとう」
「昼食どこにしましょうか」
「例によって、何も考えずに来た」
「僕も考えていません」
「あ、あそこはどうやろう、テラス席のある3階の豚カツ屋さん。テラス席に行こうとすると店員には困惑され、高校生には笑われ、眺めは良くない上に非常に寒く、今のような時期にテラス席にするメリットは全くない」
「適度な温度と湿度のある場所がいいです」
「そうやな。君が喉を痛めると良くないもんな。そうそう、健康といえば、最近薬物にハマっていて。ここに来るときも、電車の中で広告を見たら「大麻」って書いてあったんやけど、何事かと思ってよく見てみたら「大阪」やったんよ。全然違う単語やったからビックリした。えー!「大阪」が「大麻」に見えたってこと!?って」
「こんなところで大麻大麻と言うのはやめて下さい。人に聞かれたら先輩の同類と思われるじゃないですか」

食事をして店を出たところ、彼はお手洗いに行きたいと言った。近くに百貨店があったため、その中のトイレを借りることにした。彼をトイレに行かせて、私は外で待っていた。
辺りを見回すと、2つの消火器が置いてあった。暇だったので、私はしゃがんで消火器を眺めていた。へー。片方は2015年製、もう片方は2016年製か。もしかすると、同時に使用期限が切れてしまって使える消火器がない、とならないようにしているのだろうか。なるほどなあ。振り返ると、後輩は排泄を済ませて戻っていた。私は彼に声をかけた。
「お帰り」
「先輩、何してたんですか」
「何って......。消火器を見とった」
彼はいきなり笑い始めた。不可解な奴だ。
「さっきまでカップルが先輩のことをじろじろと不審そうに見ていましたよ。先輩、不審者ですよ。あーこの人やってしまったなあ、と思いました、本当に。もうどこかに行ってしまいましたけど、カップルがいる間に先輩に話しかけられたらどうしようかと」
「え......。もしかして、こんなことしてるから俺って彼女がいないのかな」
「そうですよ。デート中に彼氏が消火器見てたら彼女も『別れよう......』ってなりますよ」

はあ。もっと早く振り向いて、「おう、もうマリファナ吸い終わったんか。早かったな」とでも言ってやればよかった。実に惜しいことをした。

2019年3月17日日曜日

構造と価値

最近、生や世界についてなど、抽象的な事柄について友人と議論する機会がしばしばあった。この記事は、そうした議論を通じて自分の中に感じ取られた、私の基本的な思想についてまとめたものである。他の人にとっては読んでいてつまらないかもしれないが、今の私にとっては重要な文章であり、記録としてここにアップロードしておく。


世界は構造を持つ。
私は、世界には法則があると信じている。世界は物質からできており、物質は法則に従う。法則は世界に構造を与える。そうした構造の一つが生物であり、人であり、私である。

世界は意味を持たない。
意味が存在するためには、無条件に意味を持つ絶対的な何かが必要である。例えば、愛が意味を持つと無条件に認めれば、愛に繋がる任意の行為に意味を与えることが可能となる。
世界はただ存在するだけであり、そこに絶対的な意味は存在しない。世界は、世界がどうであろうと構いはしない。世界は意味もなく存在し、私は意味もなく世界に存在する。私が存在するのは、ただ、世界が私を存在させるような世界だった、というだけのことに過ぎない。

客観世界に意味は存在しえない。価値が存在するとすれば、それは主観世界の中である。
人は、好き勝手に何かを選んで、それを絶対視することができる。先ほどの例に倣えば、愛を絶対化することによって、愛に繋がる行為に価値を感じながら生きることができる。主観世界の中でこのような絶対化が可能なのは、人が感覚を持っているためである。感覚は人の中で絶対的な基準として十分な資格を持つ。少なくとも私にとってはそうである。私がどう感覚するかは私にとってそれだけ重大な関心事だということだ。いや、「重大な」ではなく、「重大に感じられる」というべきか。いずれにせよ、最終的に感覚に依拠して価値判断を行うことにより、価値の基盤を求めて無限後退に陥ってしまう事態を回避し、世界に価値を見いだすことが可能となる。このように、価値は感覚によって支えられている。主観世界は感覚が全てであると言ってもよい。
ただし、人体は物質であり、感覚もまた法則が生み出した構造に過ぎないことには注意が必要である。快なる状態を実現するための行為に意味はない。

これまでの経験によれば、あらゆる生物はやがて死ぬ。人は死に、物は朽ち、情報は散逸する。
人は、自らが生きた証を世界の中に残すことに意味があると思い込むかもしれない。例えば、生殖によって自らの遺伝情報を残そうとしたり、業績によって後世の人々の記憶に留まろうとしたりするように。しかしあらゆる情報は散逸する。文明は滅ぶ運命にある。生きることに意味はないし、生きた証もやがて消える。生の価値を自分の外部に求めるようとしても無駄である。とりうる選択肢は、自分の感覚に基づいて意識的に生を価値付けるか、あるいは価値付けずに淡々と死ぬかである。
今の私はどちらかというと後者に近い。だから私が今日死んだとしても、私は別に構わない。とはいえ、自動車に轢き殺されるであるとか、急性の疾患で病死するだとかは嫌である。しかしそれは死ぬこと自体が嫌であるからではない。死に苦痛が伴うことが嫌なのである。全身麻酔が効いているうちに医療ミスで死亡するのであれば歓迎する。

私は、食欲などの基本的欲求を満たすことに少しの価値を見出しているが、欲求が充足されたときの快よりも、充足されないときの不快の方がはるかに強く感じられる。空腹による不快感はあまりに強く、そしてあまりに頻繁である。このため、生は基本的に不快である。病気にでもなればなおさら不快だ。これは私をそういう構造にした世界の側に非がある問題であり、私がこの世界から退出しない限り解決されることはない。私の価値は自分の感覚に依拠している。私は快を最大化し不快を最小化したい。最も合理的なのは、この場で今すぐ死ぬことだろう。しかし、私は死に伴うであろう苦痛を忌避するあまり、不合理にも生き続けている。私は問題を先送りにし続けている。
多くの人は、人類社会の存続や繁栄を願うだろう。しかしそこに意味はない。では価値の観点からはどうだろうか。500年後に人類が滅亡したところで、その人にとって何の問題があるだろうか。人類社会の存続を願うのは、人類の永続を願うからではない。社会に今終わられては死の苦しみに直面することになって困るからである。しかし、隕石が落ちて人類が滅ぶにしても、人口が漸減して人類が滅ぶにしても、滅びに直面する人類は、死の間際に生じる苦しみ、生活が維持できなくなる苦しみに直面することになる。社会を維持することは、すなわち滅亡の苦しみを先送りにすることであり、自分さえよければいいといったエゴイズムの産物のように見える。それならば、社会が維持できている今のうちに生殖を中止し、全員一気に安楽死した方が人としての倫理にかなっているのではないか、と思わずにはいられない。

私は、一方で、基本的欲求の充足以外に基づく生の価値付けも行っている。それは世界の法則を知ることである。私は世界の法則に興味がある。それは私が構造であるからだ。私は生き、感じ、やがて死ぬ。そのことは世界の法則にどのような形で刻まれているのか。私はそれを知りたい、それを知った状態に少しでも近づきたいと思っている。しかしこれは重要でないといえば重要でない。私は究極的な答えを知ることなしに死ぬだろう。仮に生きるのであればその生の長さの中で出来るだけ答えに近づきたいというだけであって、たとえ私が今ここで死ぬのであったとしても、それはそれで構わない。むしろその方が良いだろう。
あるいは、遠ざかった答えを、近づいた答えと誤認して死ぬかもしれない。しかし、私が本当に答えに近づくかも重要ではない。世界に意味はないが、価値はある。たとえまやかしであっても、私が答えに近づいたと自分で思い込めば、そこに価値は発生する。主観世界に真実とまやかしの区別はない。

私は、法則を知ることは私自身を知ることに繋がると信じている。自分自身を知ることを絶対視しているため、法則を知る営みにも価値を見いだしている。一方で、法則を知ることで世界を知ることができるかというと疑問がある。仮に(私の思い込みなどではなく)世界に本当に法則があって、その法則の内容が完全に解明されたとしても、世界に何故そのような法則性があるのかという問いは解明されないまま残っている。世界の法則を知る営みは、世界があること、その世界が法則性を備えていることを前提としている。そして、この前提は法則の内容に関わりがない。我々が世界の全てを知ることは、原理的にできないだろう。できるに越したことはないが、私はそこまでは望んでいない。構造さえわかればそれで十二分に満足である。

私が今ここで死んでもそれで良いと思うのは、私の死は私の消滅に他ならないと思うからだ。もし輪廻転生があって、解脱しなければ私が消滅できないのであれば、私は私の生を使って解脱への道を模索しなければならないことになる。しかし私は輪廻などの概念を信じていない。まず、同じ世界で輪廻があるとしたら、生命の誕生に生殖と無関係な解脱という要素が加わるのだから、生命が自然発生して数を調整する必要があるだろう。しかしそれは私の感覚に合わない。また、私の意識は、私の肉体という"構造を持った物質"が法則に従って時間発展することによって生み出されている。従って、私はこの世界のもとでこの構造に紐付けられている。だからこの世界で今の私の構造が失われた後に発生する私というものもなければ、別の世界で異なる法則に基づく私というものもないと思う。魂なるものを持ち出すにしても、私の魂を持って転生した人は私の構造と感覚を共有しない他人でしかない。私と魂を共有する他人がどこかの世界に発生したとしても、私が死亡した時点で私の感覚、私の不快は消えていて、私の問題は解決されている。

主観世界は感覚が全てである。自分が死のうと社会が滅亡しようと構わないのだから、私が快と感じるか不快と感じるかだけが全てであって、それが真の幸福かと問うことには何の意味もない。例えば家族愛に基づく幸福感は真の幸福と見なされることが多いように思われるが、そもそも幸福が真であるとはどういうことかが不明である以上、その幸福が真であることを保証してくれるものは何もない。せいぜい、この幸福は真だと感じるという感覚だけである。
押せば自分に快を与えるスイッチがあるとすれば、私はそれを押し続けるだろう。そのスイッチを押し続けたいがために、自分が世界の構造を知ろうとすることをやめ、社会生活をやめ、食べることもやめて一人で死んだとしても、死の瞬間まで快い感覚の中で苦しみなく生きることができるのであれば、私はそれを望む。それほど快いのであれば、快感を長続きさせるためにむしろ今より生への意欲が増すかもしれない。
この点で私は麻薬に興味を抱いているが、現実にある麻薬に手を出したいとは全く思わない。第一に、先ほどは「何回でも押すことができる」理想的なスイッチを考えたが、現実の麻薬は消費すればなくなり、使い続けるにはお金がかかる。死ぬまで麻薬を使い続けることは現実的ではない。第二に、先ほどは「押す前から自分に快感を与えることが分かっている」理想的なスイッチを考えたが、現実の麻薬は摂取して初めて自分に与える感覚がわかるものである。麻薬が自分にとって未知であることに由来する恐怖の感情がある。第三に、先ほどは「何回押しても自分に同じ快を与えてくれる」理想的なスイッチを考えたが、現実の麻薬は使えば使うほど快が減るばかりか、心身が害され不快感が増えていくとされている。麻薬使用者の手記などを読む限り、現実の麻薬から得られる快は禁断症状の不快感に対して割りに合わないだろうと推測される。これらの難点を思えば、現実の麻薬は、せいぜい死の間際の苦しみを抑えるのに使うくらいが関の山だろう。

世界の意味とは意味が違う意味であるが、文章の意味も世界の意味と似た側面を持つと思っている。文章を構成する単語の意味を他の単語で説明しようとすれば無限後退に陥るため、結局文章の意味は主観世界の中にしか立ち現れ得ない。
世界は構造を持っているが、世界は意味を持っていない。しかし、その構造に価値を見いだすことは可能である。私にはその面白味だけで十分である。それは文章も同様だ。意味はなく、構造だけがあるが、その構造に価値を見いだすことは可能である。
書いた当時は意識していなかったが、「つい洗剤を出しすぎてしまい困る」あたりの記事には、そうした私の思想がにじみ出ているような気がしてならない。