2019年10月22日火曜日

排便時の癖

注意: タイトルを見れば容易に分かることだが、この記事は排泄に関する内容を扱っている。そういった話題が不快な方は、読まれないことをおすすめする。

人は、多かれ少なかれ癖を持っているものである。無くて七癖というように、無ですら七つの癖を持っているのだ。存在者たる我々がどれだけの癖を持っているのか、私にはもはや想像もつかない。星の数ほどの癖が織り成す我々の一日というものは、いわば一つ一つが小さな銀河系だ。一人一人にそれほど膨大な数の癖を用意しなければならないことを考えれば、誰にどんな奇妙な癖があったとしても決して不思議ではないだろう。
というわけで、今回は癖の話である。今から私のある癖について述べるのだが、もし仮にそれが奇妙に感じられたとしても、どうか笑わないで頂きたい。これは、私の人生観の根本に関わってくる、極めて真剣な話である。

私には、排便時に上の服を半分脱ぐ癖があるのだ(図1)。
図1: 大便を出すときの私の様子。首の部分を掴んで持ち上げ、Tシャツを半分脱いでいる。
ひょっとすると、わけがわからないと困惑されているかもしれない。だが、これには一言では語り尽くせぬ深いわけがあるのである。今からそれを説明しよう。

ある日のことである。私は便座に座って大便を出している最中だった。お腹に力を入れて大便を出そうとしている間、お腹以外の部位は特にやることがない。つまり、手持ち無沙汰なのである。持て余された頭の中で、私はふとこんなことを考えた。
そもそも人類は、直立二足歩行により手を解放し、手に様々な作業を担わせることによって栄華を築いてきた生き物である。このことを踏まえると、手はヒトの最大の特徴であり、そしてヒトのヒトらしさの源泉であり、更には文明社会の象徴でもあると言うことができるだろう。このように手は人間にとって本質的に重要な存在であるわけだが、その手が排便している間はガラ空きになってしまう(*1)のである。これは、私の文明人としての基盤を揺るがす大きな危機であり、深く憂慮すべき由々しき事態なのではないだろうか。
便を出しながら、私は思った。果たして今、自分は本当に人間であると言えるのだろうか。いや、ヒトである両親から生まれたのだから、自分がヒトであることそれ自体はほとんど疑いようがない。だが、今問題なのはそこではない。排泄という動物的な行動の中に飲み込まれて、自分はすっかり〈動物〉化してしまっているのではないだろうか、ということだ。
そういえば、かの丸山眞男も、その著作「「である」ことと「する」こと」の中で「自分が債権者「である」ことに安住して何もしないでいると、いつしかその権利を失ってしまう。「である」ことは、「する」ことによって保たれるのだ」といった感じのことを説いていた。従って、私は、人間として振る舞うことによって人間であることを保たなければならない、そして自らを人間たらしめるための努力を怠ってはならない、ということになる。ではどうすれば、私は便意と共に押し寄せるこの〈動物〉化の波に抗い、近代的自我を取り戻すことができるだろうか?私が〈私〉であり続けるためには、一体どうすればいいのだろうか?

ーーこうして悩んだ末に私がとった行動が、「Tシャツを脱ぐ」ということだった。手元にあり、とっさに掴めて、手で「何か」できる対象は、自分が着ているTシャツ以外には思い付かなかった。

かくして、私の近代的自我は回復された。排便時にTシャツを半脱ぎにする癖がついたのはそこからである。

ここで想定される反論として、「何もTシャツを脱がなくたって、スカートを履けば自然に「排泄しながら手を使う」ことが達成されるはずだ。それならば、なぜ普段からスカートを履かないのか」というものがある。確かに、これは尤もな主張であるように思われる。しかしながら、実際にスカートを履いた状態で大便を出してみないことには、正直なんとも言いようがない。
そこで、実際にやってみることにした。どんなことでも実験によって確かめる、それが科学者スピリットというものである。このために購入したスカートを次の写真1に示す。
写真1: 排泄実験に使用したスカート。丈はおよそ70 cm。
これは、フリマアプリ(*2)「メルカリ」を通じて購入したものである。送料込みで300円だった。なお、写真1をよく見てみるとスカートに茶色いシミが付いていることが分かるが、このシミは購入時に最初から付いていた汚れである。私の大小便に由来するものでは断じてない。
実験は次のような手順で行われた。
  1. スカートを履く。
  2. スカートをたくし上げ、パンツを脱ぎ、便座に座る。
  3. たくし上げたスカートを手で支えながら排便する。
  4. 排便によって臀部に付着した汚れを、トイレットペーパーで拭い取る。
  5. パンツを履き、汚物を流し、手を洗う。
スカートを履いている場合、片手でスカートを持ち上げ続けなければならない都合上step 4が難しくなり、それが排便行為の全体としての煩雑さにクリティカルに効いてくるのではないかと予想された。ところが、実践してみたところ、step 4は予想されたほど難しい作業ではなく、さほど問題にならなかった。私が気になったのは、むしろstep 3における対称性の悪さである。ズボンを降ろしてTシャツを半分脱いでいる場合、上半身も下半身も半分脱いでいるので対称性が比較的良い。しかしながら、スカートを履いている場合、スカートを上に持ち上げることになるので衣服がやや上側に偏ることになる。これはスマートでない感じがした。
この結果を踏まえ、「スカートを履く」という案は採用しないことにした。

......いや、何が「「スカートを履く」という案は採用しないことにした」だ。冷静になって考えてみれば、手を使うことと近代的自我の間には何も関係がないだろう。それは、手を持たない身体障害者のことを考えてみれば明らかである。彼らを見て、誰が「近代的自我を持たない〈動物〉化した人間だ」などと言うだろうか。結局、私の思考は根本的に間違っていたということである(*3)。
それなら、Tシャツを半脱ぎにする癖なんてとっととやめてしまえばいいではないか。ところが、そうは問屋が卸さない。冒頭で言ったように、これは私の人生観に深く関わっている問題なのだ。一体それはどういうことか。

「Tシャツを半脱ぎにする」ことが持つ意味を考えてみよう。
Tシャツを半脱ぎにすることにより、Tシャツが半脱ぎになっているという状態が実現される。言い換えれば、「Tシャツを半脱ぎにする」という行為は、「Tシャツが半脱ぎになっている」という事実を成立させる。そして、「自分のTシャツが半脱ぎになっている」という事実の正しさは、「目を開くと自分のシャツの裏地だけが見える」という、自らの感覚器官を通して得られる認識によって保証される。従って、「Tシャツを半脱ぎにする」ことにより、自分の感覚によって確かめられた事実を、この世界に1つ、能動的に増やすことができるのだ。
こんなことを言うと、そんなつまらない事実を増やしてどうするのだと読者の方々に呆れられてしまうかもしれない。だが、これこそが、生まれ落ちたこの世界を目一杯楽しむための私なりの方法の一つなのだ。確かに、「Tシャツが半脱ぎになっている」というのは些細といえば些細なことだ。しかし、排便時の片手間でこの世界に新たに創出される事実としては、十分過ぎるほど深遠なことであるように私には思える。なぜならば、その中身が些細かどうかに関わらず、全ての事実は「存在する」というこの上なく興味深い性質を有している(*4)からである。
一見とるに足らないと思われることでも、見方を変えれば深遠になる。考え方一つ、排便時の行動一つを変えるだけで、いつもの当たり前の日常が、当たり前でない不思議な世界へと一変する。その意味で、排便時にTシャツを半脱ぎにすることは恋をすることに極めて似ている。これは、世界を輝きで満たしてくれる、甘くて不思議な魔法なのだ。
「面白さ」は、決して世界にアプリオリに内在している性質ではない。我々が世界を能動的に面白がることによってこそ、世界は面白くなっていく。そう、私の目に映る世界は、私が面白くするのだ。

要はそういうことである。

(*1)私は男性であるため、排尿時は片方の手による力添えを必要とする。尤も、座って排尿するときはこの限りではない。
(*2)フリーマーケットで行われるような個人間での売買を、インターネット上で行うためのスマートフォン用アプリケーションのこと。
(*3)私が実験に費やした300円は完全なる無駄だったということでもある。
(*4)私のある友人も、「この世の全てのことに意味があり全てのことに意味は無い」と言っている。

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