2021年6月12日土曜日

老爺とも老婆ともつかぬ人

街に出ると、ジジイなのかババアなのかよくわからない人に遭遇することがある。一方で、オッサンなのかオバサンなのかよくわからない人に遭遇したことは、私の経験上未だない。この観察事実は、一定数の人間は歳を重ねるに従って性別の境界が不分明になることを示唆している。
ところで、性別の境界が不分明なのは何もジジババに限ったことではない。第二次性徴を迎える前のガキどももまたそうである。更に言えば、妊娠数ヶ月目までの胎児には外性器がなく、超音波検査をもってしても胎児の性別を知ることができない。
プラトンの著作「饗宴」には、次のような主張をする詩人アリストパネスが登場する。曰く、男が女を、女が男を求めるのは元々一つの体だったからだと。我々は元々男女両性を兼ねた存在(アンドロギュノス)であり、失った半身を今も探し求めている、そしてそれが愛なのだと(*1)。
人は完全体・アンドロギュノスから出発した。思春期によって「不完全」な存在にさせられた我々は、しかし、死に接近するにつれて次第に完全体へと還っていく。それは、死とは肉体を世界に還す儀式だからだ。
人生とはウロボロスの蛇のようなものである。街で見かけた老爺とも老婆ともつかぬ人が、そう私に教えてくれた。

(*1)なお、アリストパネスは、男+女の組み合わせだけでなく男+男や女+女の組み合わせで一つの体だったこともあると言っている。ちゃんとポリティカルコレクトネスに対応している。

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