2021年9月5日日曜日

夢の中の遊園地

昨日、夢の中で4,5人の友達と一緒に遊園地に行った。

観覧車に乗ると、だんだん観覧車全体が傾いて水平にぐるぐるぐるぐる回り始めた。観覧車から降りて次のアトラクションに行こうとしたが、私だけ出口を間違えてしまい、スタッフの老婆が仕組んだトラップによって左腕をレーザーで焼かれてしまった。そして、その左腕の傷が膨らんで、あれよあれよと言っているうちに、たちまち原子力発電所が建ってしまった。敦賀原発だった。私は普段から原発の電気を使っているし、原発の安価な電気で産業が振興されることによる間接的なメリットも受けている。だから、直ちに原発をゼロにせよとは、私は正直言えない。けれども、自分の腕に原子力発電所があるのはやっぱり嫌だ。常日頃原発の恩恵を享受しておいていざ自分の身近なところに原発が建ったらこの態度かと思われるかもしれないが、流石に嫌だ。根本的に邪魔だし、放射性廃棄物の処理の仕方も分からない。
こういったことを老婆に伝えたところ、日光を浴びれば自然に消滅するだろうと言われた。そこで私はアトラクションめぐりから離脱して日向ぼっこを始めた。

少しだけ縮んだものの、敦賀原発はなかなか消滅しそうにない。これからどうしようと悩んでいると、目が覚めた。ワクチンの副反応で微熱が出ていた。

2021年8月4日水曜日

政治の失敗は国民の失敗である

東京オリンピック開催の裏側で、新型コロナウイルスの感染が拡大している。政府が矛盾したメッセージを発し続けた結果、緊急事態宣言の効果は限定的なものに留まっている。今夏にオリンピックを開催すること自体には賛否両論あったものの、少なくとも今の日本政府にとってオリンピックの開催と市中での感染拡大防止の両立が無謀だったことに関してはほとんど異論がないだろう。
今秋までには衆院選が実施される。我々国民は、自公政権を選択し続けることの意味を今一度問い直さねばならない。もちろん、政権交代を起こせば全ては解決するなどと言うつもりはない。私が言いたいのは、何々党に投票しろだとか、誰それを応援しろだとか、そういった単純な話ではない。

積極的に投票したい相手がいない、といった意見をしばしば耳にする。自民党は自民党で問題を感じる一方で、野党は野党で弱くて頼りない。そこでとりあえずで自民党に入れておくわけだ。
私は、これはこれで理解できる意見だと思う。現在の野党が多くの問題を抱えていることは私も同意するところである。しかし、これで終わってよいのだろうか。そもそも、どこにも積極的に投票したいと思えないこの状況が異常ではないか。日本の人口が1億人以上あって、賢い政策を実行できる能力を持った人が一人もいないとは思えない。要するに、賢人は政治家になろうとしない、なったとしても大して評価されない、という現状がある。賢人にとって政治家が魅力的な仕事ではなくなっているのだ。

日本は国民主権の国であるから、いわば国民が国会議員の上司としての役割を担っている。政治の失敗は、政治家の失敗である以前に国民の失敗である。国民が政治家を選び、評価するのに失敗したから政治の失敗が起こるのだ。政府の失敗を目にしている今の我々は、政府を批判するのと同時に自分自身をも批判する必要があるはずだ。
選挙で何党に投票するのかという個々人の選択結果自体は、実はさして重要ではない。むしろ重要なのは、政治に関する情報を集め、吟味し、投票先を考えるというプロセスの部分だ。政治家を評価できるのは有権者だけだ。政治家によりふさわしい人物を政治の場に惹きつけ、彼ら彼女らになるべく正当な評価と報酬を与えるために投票するのだ。投票したい人がいない、で済ませてしまうのは思考停止ではないか。
政治の失敗は、単に政治家の失敗として人ごとのように片付けてよい問題ではない。国民は、政治の失敗を自らの問題として捉えるべきだ。政治家は選挙で選ばれるだけの存在であり、言ってみれば所詮国民の傀儡に過ぎない。日本の政治の問題は日本国民が解決する以外に手立てがない。
現在、政治参画に関する主体性の欠如が世間にうっすらと広がっているように感じられる。文書主義の軽視や国会の軽視といった国政の風潮、そしてそれを容認するかのような世論の反応を見ていると、この主体性の欠如が民主主義を根元から蝕み、やがては形骸化させていくのではないかと憂慮してならない。

2021年7月20日火曜日

東大生に男子が多いのはオシッコが原因かもしれない

昨夜、ふと思った。
東大生に男子が多いのはオシッコが原因かもしれない。

東大生の女性比率はおよそ2割だ。日本最難関とされる大学の学生の男女比がこのように偏っていることは大きな問題であるとされ、その是正に向けて女子学生向けの家賃補助や女子高校生向けの説明会など様々な施策が行われている。しかし、果たしてこれで十分なのだろうか?
現在、東大生の偏った男女比は家族が娘の社会進出を好まないなどの社会的要因によるものだと説明されることが多い。だが、この現象は社会的な要因が全てだとは考えにくい。男女の身体の構造的な違いも多分に影響しているはずだ。そうした違いの代表的な例がオシッコである。男性は女性と比べてより長い尿道を持つために、オシッコをより多く、より長く溜めることができる。東大生の男女比の問題を考えるにあたって、この事実を無視することはできないのではないか。
オシッコを溜める能力の高さは試験にあたって有利に働く。東大の入試問題は、言うまでもなく難しい。一問一問の難しさもさることながら、時間に対して問題量が多く、高い処理能力が要求される。受験生にとって解答時間は1分1秒でも惜しいものだが、東大の場合特にそれが顕著だ。東大受験生は試験中にトイレに行くための時間を持たない。
東大が課す難問は、受験生に対して多大な精神的負荷を与える。緊張するとオシッコをしたくなるのは誰もが経験的に知ることだ。受験生は究極の選択を迫られる。

オシッコをするか、しないかだ。

とはいえ、本当に試験中に席を立ってオシッコに行く人は少ない。恐らくみりあくらいのものだ。私の計算によれば、受験生の9割は試験中にオシッコを我慢している。しかし、オモラシの瀬戸際に立つ人間に、数学の難問が解けるだろうか?解けないに決まっている。膀胱も頭もオシッコでいっぱいの人が知性を有するわけがない。これは、胃袋を食べ物で満たすと頭の回転が鈍くなるのとほぼ同じ原理のことである。
この理論的考察を検証するためには、次のような実験をすればよい。高校生の集団を3つのグループにわける。それぞれA, B, Cとしよう。Aグループの生徒には普段通りに試験を解いてもらう。Bグループの生徒には一人一枚オムツを与え、「いつでもオシッコを漏らしてよい」と伝えた上で試験を解いてもらう。最後のCグループの生徒に関しては、パンツをカバンにしまってパンツを履かずに試験を解くようにしてもらう。このようにして同一内容の試験を解かせ、各グループ上位10%の生徒について点数に性差があるかを比較する。
ノーパンで試験に臨む人間が賢いとは到底思えないので、おそらくCグループの得点が一番低くなるだろう。だが、Cグループは実験に特に関係がないのでおいておく。問題はAとBの結果だ。もしBがAより高得点であり、かつ男女の得点差も縮まっていれば、私の説は正しいと立証されたことになる。

以上に述べたように、オシッコを溜める能力と入試の得点には深い関係があると予想される。点数の差は尿道の差だ。尿道は長いに越したことはない。長いものには巻かれろである。長芋にはまぐろである。一方で、オシッコをあまり溜めていると膀胱炎になるともいう。膀胱炎といえば、膀胱炎と等高線と孟浩然は語感が似ている。つまり、ゆめゆめミミズにオシッコをかけてはならないということだ。ミミズは漢字で蚯蚓と書く。虫に丘、虫に引でミミズである。ミミズは虫の世界のおかっぴきなのだろうか。おかっぴきがいた江戸時代では、オシッコは集められて肥料として役立てられていたそうだ。
オシッコも奥が深い。

2021年7月10日土曜日

忙しさ

今月6日に修士論文の審査会があった。自分の限界近くまで頑張って準備したため、終わった後は数日抜け殻のような状態になっていた。しかし、修論の内容を進展させて雑誌に論文を投稿するためにはやらねばならないことが山積しており、いつまでもぼんやりしているわけにはいかない。忙しさが少し緩和されるだけで、結局忙しいことに変わりはない。
しかし、一体どうして私はこんなに忙しいのだろうか。何回留年してもいいのならこんなに忙しくはなかったわけで、忙しいのは留年を回避したかったためということになる。留年すると学費も余計にかかる上、奨学金も打ち切られて一気に生活が苦しくなるのだ。就職活動にも響くだろう。まとめると、私が忙しいのは金銭的問題、つまり資本主義のせいということになる。
一応現在の日本には生活保護という制度があるが、実際の運用としては働く気がなくても生活していけるようにはなっていない。働かないとお金が足りなくなる。お金が足りなくなると何に困るかというと、第一は衣食住だ。こうして資本主義は衣食住を人質に取り、我々を労働へと向かわせる。ここで私が思うのが、こんなに皆が皆働く必要はあるのだろうか、資本主義は我々を労働させて一体どこへ向かおうとしているのか、ということである。

***

学部一年生の頃、微生物学の授業で寒天培地を使った微生物の培養について学んだ。微生物の数が少なく、コロニーに対して培地全体が十分に広い間は、微生物は指数的に増殖する。だが、この爆発的増殖はいつまでも続くわけではない。培地の広さや栄養の量には限界があり、コロニーの拡大はやがて止まる。
思うに、地球の人口もこのような力学で決まっているのだろう。すなわち、地球上にある住みやすい平地の広さや地球上で得られる食料の量には限界があり、その限界が地球の人口を決めている。いくら第二次産業や第三次産業が発達したとしても、人類には第一次産業の原理的限界という制約がある。そして、人類はこの制約の限界まで増え、今や地球を覆い尽くしている。
例えば、ハーバー=ボッシュ法の発明は農作物の収量の劇的な増大を実現し、人口の拡大をもたらした。このことは、人類の叡智の成果として誇らしげに語られる。しかし、この人口の拡大は本当に喜んでいいことだったのだろうか。食料が増えたなら、そうして増えた分だけ人口が増える。人口が増えれば、最初のうちは田畑を拡大して更に食料を増やせるかもしれない。ところが、人口が増えたからといって食料も線形に増えるわけではない。新しく開墾した土地は、以前からあった田畑よりもきっと条件が悪いはずだからだ。やがて食料の増加は人口の増加に追いつかなくなり、飢える人が出始める。人口の増加はこうして止まる。
限界まで産業が発展することは、資本主義の思し召しには叶うことだ。だが、それは人類を必ずしも幸福へと導かないだろう。少なくとも私は、飢えるような人を出してはいけない、そんな人を出すくらいなら初めからその人を産むべきではなかった、と考える。言い換えれば、農作物が増えても人口を増やさず、増えた農作物を皆で分け合って暮らすことができたなら、一人一人はもっと豊かに、そして幸福になれたのではないか、ということだ。
人口と産業規模が拡大することによるスケールメリットは存在し、それによって生まれた豊かさというものも勿論ある。社会がごく自然にスケールメリットを享受できるよう導く点が資本主義の利点だと言ってもいいだろう。しかし、資本主義が競争原理を通じて個々のプレイヤーに最適化を促す裏側で、人類に地球という制約が存在することは無視されてきた。昔話の老夫婦が柴刈りや洗濯をする程度の自然利用であれば、いくら自然を利用しても自然が回復してくれただろう。だが、人類の活動の規模が大きくなればなるほど、自然が自分を修復してくれるという仮定は成り立たなくなる。自分達の活動は地球全体で見れば微々たるものであり、資本主義の外側の世界からはいくらでも搾取できるはずだという誤った外挿が、公害を生み、環境問題を生み、動植物を絶滅ないし絶滅の危機へと追いやった。産業に使う資源は足りなくなり、限られた資源を巡って人類は戦争を繰り返した。
果たしてこれでよかったのだろうか。人類にはもっと別の道があったのではないか。

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私は、資本主義がある意味で自然なシステムであることも、こうして根付いたシステムを捨てるのは難しいということも十分承知しているつもりだ。それに、共産主義に移行すれば万事解決というものでもない。私は、資本主義を今すぐやめろとまでは主張できない。私がここで主張したいのは、人類は資本主義の限界をせめて自覚すべきだということ、そして私に非課税の5億円を給付することで私の生活を保障し、私を忙しさから解放すべきだということ、この2点である。

2021年7月8日木曜日

量理

フォロワーの人とZoomで会話した。相手を仮にAさんとしよう。
A「普段3食自炊してるんですか」
私「そうやね。僕のインスタ見てみる?僕のおばあちゃんが職場で見せ回っているせいでおばあちゃんの職場で局所的に有名になっている、僕のインスタ」
A「意外と美味しそう。この前ハンバーグがボロボロになっていたってツイートしてたから、もっとひどいのかと」
私「あー、あの豆腐ハンバーグに豆腐入れすぎたせいで崩壊して鶏そぼろみたいになったやつ」
A「分量量らないんですか?」
私「量らんなあ。カンで材料入れてる。分量量るのってめんどくさくない?分量なんて量りたくないわ」
A「めんどくさいですけど、そこを含めて料理ですよ。料理の半分は計量です」
私「なるほど!リョウリって漢字で書くと半分は「リョウ」やもんな。リョウリって材料の料にことわりと書いて"料理"じゃなくて、本当は分量の量にことわりと書いて"量理"なんやね!深いな......」
A「......よく即興でそんな意味不明なこと言えますね」

2021年6月12日土曜日

老爺とも老婆ともつかぬ人

街に出ると、ジジイなのかババアなのかよくわからない人に遭遇することがある。一方で、オッサンなのかオバサンなのかよくわからない人に遭遇したことは、私の経験上未だない。この観察事実は、一定数の人間は歳を重ねるに従って性別の境界が不分明になることを示唆している。
ところで、性別の境界が不分明なのは何もジジババに限ったことではない。第二次性徴を迎える前のガキどももまたそうである。更に言えば、妊娠数ヶ月目までの胎児には外性器がなく、超音波検査をもってしても胎児の性別を知ることができない。
プラトンの著作「饗宴」には、次のような主張をする詩人アリストパネスが登場する。曰く、男が女を、女が男を求めるのは元々一つの体だったからだと。我々は元々男女両性を兼ねた存在(アンドロギュノス)であり、失った半身を今も探し求めている、そしてそれが愛なのだと(*1)。
人は完全体・アンドロギュノスから出発した。思春期によって「不完全」な存在にさせられた我々は、しかし、死に接近するにつれて次第に完全体へと還っていく。それは、死とは肉体を世界に還す儀式だからだ。
人生とはウロボロスの蛇のようなものである。街で見かけた老爺とも老婆ともつかぬ人が、そう私に教えてくれた。

(*1)なお、アリストパネスは、男+女の組み合わせだけでなく男+男や女+女の組み合わせで一つの体だったこともあると言っている。ちゃんとポリティカルコレクトネスに対応している。

2021年6月1日火曜日

短歌3首

短歌を3首作った。

  • 糖質が気になる方におすすめです 春雨スープと「方法序説」
糖質制限中の人にデカルトの「方法序説」を読んでほしいという願いから生まれた句です。ちなみに私は「方法序説」を読んだことがありませんが、代わりに春雨スープを食べた経験ならあります。春雨スープ、美味しいですよね。春雨スープも「方法序説」と同じくらいおすすめです。なぜなら、春雨スープは美味しいからです。

  • 「静粛に」議長がいくら叫んでも 喘ぎをやめない洗濯機たち
洗濯のときにエッチな音がする洗濯機の動画が話題になったことがありますが、その洗濯機が何台も国会議事堂に並べられて会議中に喘ぎ声を出している、という状況を詠んだ句です。その様子はもちろん国会中継でNHKに中継されています。
議長は機械オンチなのでスイッチを切ると言う概念を知りません。議会の秩序を保とうと叫びますが、その必死の叫びは虚空へと消えてしまいました。

  • 遺伝子を組み換えながらやってきた 長いおひげのサンタクロース
皆さんはなぜサンタさんのひげがあんなに長いかご存知でしょうか?実は、自分で自分の遺伝子を組み換えているからなんです。サンタはクリスマスの夜でさえ夜空を飛び回りながら自分の遺伝子を組み換えていて、日々進化を怠ることがありません。近年では、より高速での飛行を可能にするべく、サンタ本人だけでなくサンタが連れているトナカイも遺伝子組み換えになってきています。オーガニック志向の人々からは不安の声も上がっていますが、科学者による綿密なテストの結果、安全性には問題がないとされています。