今、私は椅子に座って一つの文章を書いている。書いている文章というのは、他でもないこの文章である。椅子は便利だ。この文章を通して、私はいかに椅子が便利であるかを伝えようと思う。
私は、椅子の便利さを伝えるためにこの文章を書いている。この文章を書こうと思ったのは、椅子のことを便利な道具だと感じるからである。椅子に座るその度に、椅子は便利な道具だなあと思う。今私は椅子に座っており、ちょうど「椅子は便利な道具だなあ」と感じている最中である。もし椅子が便利でなかったなら、椅子のことを便利な道具だと感じることもなかっただろう。私は、椅子が便利であってよかったとつくづく思う。もし椅子が不便だったら、私は今頃椅子に座っていないだろう。ひょっとすると、逆立ち(*1)しながらこの文章を書く羽目になっているかもしれない。そうならずに済んでいるのは、椅子が便利であるからに他ならない。
何故椅子が便利かというと、椅子には座ることができるからだ。もちろん、座ることができるというだけなら、机の上にも死体の上にも座ることはできる。火傷を負うことさえ厭わなければ、熱々の鉄板の上にだって座ることは可能である。しかし、それらと椅子を大きく隔てるのは、座っている時の快適さだ。ほとんどの人は、死体の上に座ると非常に不安な気持ちになるだろう。また、熱々の鉄板の上に座ると非常に熱いと感じるだろう。これは、死体や熱々の鉄板が座るのに適していないためである。その一方で、椅子には快適に座ることができる。これは椅子に座ってみれば分かる。私は今椅子に座っているため、死体や熱々の鉄板に座るのでは得られない、優れた座り心地を味わうことができている。この事実が意味するのは、椅子が座るのに適した道具だということである。疑うのであれば、一度椅子に座ってみるとよい。椅子に座った経験のある者であれば、誰しも椅子が便利な道具であることを認めるだろう。
しかし、椅子が便利であるのは、ただ座ることができるという理由だけではない。たとえあなたが逆立ちしながらこの文章を読んでいたとしても、あなたは間接的に椅子のお世話になっている。冒頭でも述べたように、もし椅子が不便だったなら、私は今頃椅子に座っていないだろう。そして、もし私が椅子に座っていなければ、今あなたが読んでいる文章は、このような文章になってはいなかっただろう。というのも、仮に私が逆立ちしながら文章を書いていたとしたら、私は「今、私は逆立ちをして一つの文章を書いている」という文からこの文章を始めていただろうからである。この文章が書かれているのは、私が今椅子に座っているからである。椅子はあなたが快適に座ることを可能にするだけでなく、あなたがこの文章を読むことも可能にしている。この文章を書く今の私があるのも、この文章を読む今のあなたがあるのも、ひとえに椅子という道具があるからなのだ。椅子は実に便利である。
このように、椅子は記事のネタにもなる。このことから分かるのは、椅子は大変便利だということである。
(*1)ちなみに私は逆立ちができない。
4 件のコメント:
なんで椅子の話をしたのかと思っていたけど、僕の発言が元だったのか。
(The Shape of K: 10/28 - 10/31: チェンソーマン https://k-logk.blogspot.com/2019/11/1028-1031.html)
そんなこともあったね。
この記事で椅子の便利さについては十分に語られていると思いますが、元々の発言者として2点だけ補足します。
1. 僕らは無味氏の家に行くのは初めてでしたが、それまでの彼の話を聞いた限りでは、彼の家は一人で住むには十二分に広く、いろいろなものがあるのだろうと想像されました。僕の発言は無味氏がテーブルはあるが椅子が足りないと言ったことに対して言ったものでしたが、これはテーブルを含めて家具が十分に揃っていると思われた中で、休息のためにも作業のためにも使える便利な家具である椅子が足りないということに落胆しての発言でした。つまり、椅子は良いと言っているのは、単に椅子は座れて便利という意味ではなく、いろいろある家具の中で、例えば物を貯蔵するための棚のような家具とは異なり、椅子は人間の活動や休息のために広く使われる家具であって、我々が肉体をもって存在している限り我々は椅子に価値を見出すことができてusefulである、ということを言っていました。
2. 最後の段落で触れられていますが、椅子の便利さは座ることができるという点だけではありません。例えば高いところにあるものを取るための踏み台としても使えますし、下をくぐればトンネルになります(cf.「なんかいっすー」)。「座れるし」と言ったのは、座ることもできるしそれ以外の使い方もできるということを示唆したものでした。
コメントありがとうございます。君の発言の意図はよくわかりました。
>我々が肉体をもって存在している限り我々は椅子に価値を見出すことができてusefulである、ということを言っていました。
この意味での価値は認識していませんでした。このことを使うともう少し話を膨らますことができたかもしれませんね。ちょっと悔しいです。
>「座れるし」と言ったのは、座ることもできるしそれ以外の使い方もできるということを示唆したもの
これはある程度分かっていた上で、僕は君の発言を笑っていました。むしろ、だからこそ私は笑っていたのだといえるでしょう。例えば、「踏み台にもなるし」という発言なら、「踏み台にもなるし(座るのにも使える)」と「座るのにも使える」が省略されたものとして読むことができます。これは「座る」ことが椅子の第一の機能であるから、ほとんど自明なものとして省略できるのです。逆に、「座れるし」という発言であれば、座ること以外の使い方が椅子の第一の機能として想定されることが示唆されます。つまり、「座れるし」という発言は、「座ることもできるしそれ以外の使い方もできるということを示唆したもの」であるがゆえに、まるで君が普段から椅子の下を潜って使っているかのような、奇妙な状況を想起させる発言になっているのです。そして、私はその奇妙さを非常に面白いと思ったのでした。今回の記事では、そうやって君の発言から感じ取れた奇妙さを分析し、その奇妙さを生じさせる構造を受け継ぎながらも私なりに発展させて、「座ることができるがゆえに、自動的に他の使い方も生じるのだ」という主張をしてみました。果たして私の主張はちゃんと奇妙だと感じていただけるものになっていましたでしょうか。
ところで、「なんかいっすー」という曲は初めて知ったのですが、面白い曲ですね。教えてくれてありがとうございます。
返信ありがとうございます。2.については余計なお世話だったというか、僕が君の主張をうまく読み取れていなかったようです。
少し話は変わりますが、先日、防災訓練で、机を身を守るための道具として使いました。普段は机の上で作業をしているわけですが、下に潜って身を守ることもできるということを再認識して、机は便利だなあと思いました。ちなみに防災訓練は火災訓練だったので机の下に潜っていたのは僕だけでした。
椅子といい机といい、便利な道具に囲まれて、便利な時代になったものですね。でも、避難訓練は避難の訓練であって漫才の訓練ではありません。いざというときに机を使ってモノボケをしていたら逃げ遅れて苦しみながら焼け死にますよ。
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