[case 1]
私「幽霊のコアラしかいないコアラのマーチ ロッテ怖ラのマーチ」
[case 2]
私「えーっと......。大阪城に行くにはどっちに行けばいいんですかね」
Aさん「記憶が正しければこの道で合っているはず」
私「記憶……記憶って大事ですよね。記憶がないと自分が誰かも分からない。こうやって道を進むことによって、自分の記憶の正しさが次第に検証されていく。毎日とは記憶を確かめていく作業の積み重ねであって、その作業を通じて自分自身という存在もまた確かめられていく。そういう側面ってありますよね」
[case 3]
私「卵って殻さえ割らなければ10日間くらいは生で食えるからありがたいな 刺身も殻付きで売ってくれ」
帝華さん「条件を揃えるなら「生きたまま売ってくれ」では?」
私「その辺は大丈夫です おさかなさんはみんなの心の中で今も生き続けてるんで」
このように、私はしばしば意味不明な発言をすることがある。これらの発言にはほとんど意味がないのであるが、全く意味がないのではない。実は、このような無意味な発言の背後には私の人生観が隠れているのだ。
「私は何のために生きているのだろう?」「どうして宇宙は"ある"のだろう?」と考えたことはあるだろうか。かつての私はよく考えていた。そうして思索を巡らせているうちに見出した私なりの結論が、「私が生きるのは私が生きているからに他ならず、宇宙があるのは宇宙があるからに他ならない。私は何の意味もなく生きており、宇宙は何の理由もなく存在している」というものだった。
私の人生は本質的に無意味なのだが、その無意味さが意味することは絶望ではない。私が選んだのは、無意味さを嘆くことではなく、むしろ無意味さを人生の本質として肯定的に位置付け、無意味をこそ意味とすることだった。己の人生の無意味さを積極的に受け入れた上で、人生が無意味だからこそ日々を精一杯楽しく生きていこうという思想である。そして、そうした思想に基づいて生まれたのが上記のような発言だ。無意味な発言は私の人生のアナロジーである。これらの発言は無意味であるが、無意味な言葉を敢えて発することによって、無意味な発言の中に「実は人生のアナロジーになっている」という意味が生まれる。かくして無意味は意味へと転換する。これは無意味な人生に意味を見出すことに対応している。
一見意味がないようであるが、意味がないからこそ意味がある。いわばこれは「無用の用」ならぬ「無意味の意味」だ。ひょっとすると読者の方にとってはこの文章自体が意味不明だったかもしれないが、もしそうだったならこの文章には意味がある。その理屈はこの文章の中に書かれてある通りだ。この文章は、私の人生、私の目に映る世界全体の縮図と言っても過言ではない。そう、Kを自称する私にとっては、人生全体、そして宇宙全体が「無KのK」なのである。
2 件のコメント:
先ほどもコメントしたものです
いろいろ考えらされる文章でした
暇な時に何するかっていうテーマのブログ読みましたが、
自分の人生の意味を考えながらいつの間にか眠りについてあっという間に時間が経過するのって最高の暇つぶしになると思いました
そして翌朝目覚めて、自分の人生には意味はないけど今日も楽しく精一杯生きようっと思って起床したいと思いました
ちなみに 僕は理由もなく生きてますが、宇宙は理由もなく生まれて存在しているとは思えませんでした 時間も空間も存在しなかった宇宙誕生前のサムシングが僕だと思ってます
管理人のK. 如才です。コメントありがとうございます。
>時間も空間も存在しなかった宇宙誕生前のサムシングが僕
よくわかりませんが頑張ってください。これからも当ブログをよろしくお願いします。
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