2020年4月30日木曜日

美人の受付嬢は苦手だ

昨日、Zoomで友達とおしゃべりをしていた。途中で就活の話になり、ある友人が「大学と違って企業には美人の受付嬢がいることに気付き、企業勤めが魅力的に感じられた」という 趣旨の発言をした。 私は当初その発言に対し曖昧な態度をとっていたのだが、その友人に同意を求められて自分の意見を表明せざるを得なくなってしまった。そこで「美人の受付嬢に苦手意識がある」という話をしたところ、「こじらせている」として物笑いの種になってしまった。
私は、自分が思春期をこじらせていることをはっきり自覚しているし、それをネタとして笑ってもらうこと自体は全く構わないと思っている。だが、私はその一方で自分の感覚をうまく表現できなかったことへの歯痒さも覚えた。そこで、今からこの記事で私が「美人の受付嬢」という概念に抱く微妙な感情について説明していきたいと思う。

私は、 ほんのついこの間まで、男女はもっと対等な存在であると信じていた。この対等というのは、恋愛についての話である。私の理想は 、二人の男女が互いに互いを対等な存在として認め合い、半ば友情に近い感情を抱きながら協力していくような関係だった。それは、例えば同じ年齢の幼馴染同士が意識し合い交際に発展するといったような物語だった。私にとってロマンスとは、対等な二人を意識させ引き合わせるための物語のことだった。しかし、この私の信念は、自分が実際に恋というものを体験するに従って、次第に危機に晒されていくこととなった。
私はプラトニック・ラブを信じていた。性欲を野蛮で低俗なものとして切り捨てつつ、恋を神聖視して生きていた。大学に入り、現代の日本では婚前交渉が一般的であることを知ったとき、そしてどうやら友人たちが実際に婚前交渉を行ったらしいと知ったとき、私は少なからずショックを受けた。だが、「彼女」を思慕する気持ちが頂点に達したとき、私の心の中に現れたのは性欲と恋心が渾然一体となった感情だったのだ。
ここに至り、私は性行動が恋愛と不可分であることを認めざるを得なかった。保健の授業で習った通り、男女の体のつくりの違いというのは基本的には生殖のためにあるものである。従って、生殖における男女の違いは、恋愛においても決して無視することはできないということになる。
生殖における男女の違い。それは明確だ。すなわち、女は産むが、男は産まないという事実である。

一般に、精子と比べれば卵子は作り出すのが大変である。オスが作る精子と比べ、 メスが作る卵子の数は極めて少ない。このことは雌雄の生殖コストに決定的な違いを生む。メスの負担が圧倒的に重いのだ。メスとしては数少ない卵子をつまらないオスに預けたくない。一方でオス側はとりあえず相手に生殖能力さえあればよいという判断になりがちで、色々なメス相手に自分の遺伝子をばら撒こうとする。その結果生じるのが、オスがメスに求愛し、メスがオスを選別するという構造だ。
人間の場合はどうなるか。社会的に一対一のつがいが基本とされているため選別構造は幾分緩和されるかもしれないが、メスが胎内に子を宿さねば繁殖が成立しない哺乳動物である以上、そこらのカエルなんかよりも事態は一層深刻だといってもいいだろう。 男は女と比べて簡単に異性に惹かれてしまう。これはマッチングアプリなんかをやれば容易に見て取れることである。男性の方が利用料金が高額であるにもかかわらず、女性が獲得する「いいね!」の数は男性のそれよりも明らかに多い。つまるところ、若い女は若い男よりもモテやすい。より露骨で、よりグロテスクな言い方をすれば、女の子宮はただそれだけで価値があるのだ。子宮の有無が、若い男女の"素"の性的魅力に大きな差を作っている。これは祖先から受け継がれてきた傾向であって、コンドームやピルといった避妊具が普及した程度のことで変わるものではない。だから、恋愛市場にはその非対称性を起源としたマクロな(*1)力学がはたらくのだ。
ここでいう力学とは一体何か。女性の体という「価値」を手に入れるためには、男は何らかの魅力を提供し競い合う必要があるということだ。それは優しさかもしれないし、あるいは知性かもしれない。だが、 ヒトにとって最もわかりやすい魅力とは社会的地位であり、そして金銭だ。シンデレラのストーリーを今一度思い起こしてみてほしい。シンデレラが結婚する王子様とは、すなわち社会的地位と金銭を持った人間のことだ。シンデレラも王子様も、互いの中身なんて見ていない。シンデレラは、美女がその性的魅力を差し出し、生来の金持ちと結婚するというだけの話に過ぎない。かくしてシンデレラの優れた容姿は金銭という即物的価値へと回収される。
シンデレラのストーリー展開には反吐が出る。私が希求するのは、もっと純な恋愛だ。しかし、選別構造が先鋭化すればするほど、物語というロマンスは解体され、動物的な雌雄の非対称性が剥き出しになって現れる。婚活市場を見よ。数多くの異性からより条件の良い人を選び取ろうとした結果、男は顔で相手をスクリーニングし、女は年収で相手をスクリーニングするわけだ。そしてその行き着く先とは、金銭と性的価値の交換 ーーすなわち売買春に他ならない。

さて、受付嬢の話に戻ろう。受付担当者は若い女性が多い。受付担当者の顔立ちを見ると、やはり整っている人が多いように思われる。それも中性的というより、女性的な魅力を感じさせる顔である。これはいわゆる「顔採用」が行われていることを示唆している。なるほど確かに美人の受付嬢は魅力的で、男性社員の士気を高め、会社の第一印象を明るいものにすることだろう。だが、それは「マクロな力学」を背景に、会社が金銭によって若い女性の性的魅力を買った結果だ。これはまさに売買春の相似形ではないだろうか。
私が欲しているのは、精神的繋がりを柱とするロマンスに満ちた恋である。売買春はその対極に位置するものといえよう。だから私は自分の恋の買春性を否定したい。たとえ他の人が無自覚な売買春に興じようとも、自分だけは恋愛を売買春化する波から逃れていたい。
街で女性を見かけて美人だと思い見惚れることと、受付嬢を見て美人だと思い見惚れることは全く違う。「美人の受付嬢」という概念は、私にとって「貨幣的価値に還元されゆく性的価値」の象徴である(*2)。一方で、私は美人の受付嬢を見ると魅力的だと思い、幾ばくのドキドキを覚えてしまう。その魅力は貨幣的価値に裏付けられたものだと反芻しても尚である。そのとき、私は己の信念に綻びがあるのを感じる。自分自身とて、売買春の波からの安全地帯では決してないのだ。
受付嬢の整った顔から向けられる視線は、私が夢見る恋からロマンスの皮を引き剥がし、私に売買春というリアリズムを突きつける。その視線が私の内面に作る感情は、私がリアリズムを否定することを許さない。ここに私の葛藤が生じる。

だから美人の受付嬢は苦手なのだ。


(*1)マクロというのは、「一人一人を見ると当てはまらない例もあるだろうが、全体の傾向として見ると」という具合のニュアンスである。
(*2)ルックスを売りにしたアイドルなども、「貨幣的価値に還元されゆく性的価値」の一形態といえそうだ。しかし、こちらはその消費性がより明示的な分、私にとっては受け入れやすい。

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