2017年12月30日土曜日
2017年8月23日水曜日
東京に来て良かったことランキングtop10
私が東京に住み始めてからもう二年が経った。私は田舎者で、かつ人混みが苦手で、その上吝嗇のきらいがあり、さらには非活動的でよく家に引きこもっている。したがって、都会向きの人間だとは全くもって言えそうもない。ところが、それでも住めば都と言うもので(*)、住んでいるうちに東京のメリットが見えてきた。そこで本記事では、都会嫌いの私なりに感じられた、「東京に来て良かったことランキング」を述べていきたいと思う。
第10位: 文化施設が多い
東京には博物館や美術館が多い。その上、その多くが大きく、たくさんの展示資料があって見飽きることがない。学生のうちから東京に住むことにより、長期休みや全休の日等を利用して、人混みを嫌う私も平日から文化施設に行くことができた。
第9位: 庭園が多い
新宿御苑、六義園、後楽園など、東京には庭園が多い。四季折々の花や、風情ある日本庭園、紅葉を楽しむことができ、これも飽きることがない。また、前田侯爵邸のように、庭園に洋館がある場合もあり、こういったレトロな建築を見るのも面白かった。
第8位: 公共交通が発達している
第7位: 病院を選べる
実家では、自転車圏内で病院に行こうとするとき選択肢はほとんどなかった。しかし東京では徒歩圏内にいくつもの病院があり、病院を選ぶ余地があった。これには大いに感動した。こうして選んだ病院は、中が明るく綺麗で断然清潔感があり、電子機器を駆使してわかりやすい説明をしてくれるため、かかりつけ医として安心感がある。今では、病院にはできる限り帰省前に行くようにしている。
第6位: 時代錯誤社がいる
東京大学の時代錯誤社というサークルには何度も私の「変人」概念を塗り替えされ、大きく衝撃を受けた。彼らの発行する雑誌「恒河沙」は私の笑いのツボを直撃し、一年生の頃の私にとって心の支えとなった。彼らが新刊を発売するときに行う特徴的な演説も面白く、私は新刊の発売を心待ちにして日々を過ごしていた。特に、政治系サークルの人とメガホン演説で対決し合う様子を生で見ることができたのは大変印象的な出来事であった。
第5位: 豆腐屋が近い
家の近くに豆腐屋があり、ここの豆腐は美味しい。冷奴にしても美味しいし、鍋の具にしても美味しいし、ゴーヤーチャンプルーに使っても美味しい。豆腐は低カロリーなため夜食にも好適で、消化がよく、良質なタンパク質を含み、優れた食材である。豆腐の使用頻度は高いため、質の良い豆腐が手軽に手に入ることは嬉しかった。
また、この豆腐屋では生のおからも扱っている。おからは日持ちがしにくい食材のため普通のスーパーでは売っておらず、近くに豆腐屋がなければ大量に手に入れるのは難しい。おからは食物繊維が豊富で、便通の改善に役立つ。この点でも豆腐屋の存在はありがたかった。
第4位: 選挙が面白い
東京の選挙は独自路線の選挙活動を展開する候補者が多く、地方の選挙と比べてかなり面白い。かの有名な又吉イエスや外山恒一が活動するのも東京であり、昨年の都知事選ではマック赤坂や後藤輝樹の出馬が話題となった。マック赤坂の公約が載った選挙公報を手にした時はある種の感慨を覚えたものである。
立候補者数の多さは、意見の多様性に繋がる。一見奇をてらっているような候補者も、公約をよく読むと検討に値する政策を提案していたり、あるいは地味な泡沫候補が政党の枠に縛られない興味深い公約を掲げていたりする。これらを発見することは、東京ならではの楽しみだと思う。
第3位: エキゾチックな料理店が多い
駒場キャンパス近くの渋谷・下北沢には数多くの料理店が軒を連ねているが、特に私が注目しているのはアジア系の店である。実家の近くにはそのようなお店は少なく、時折インドカレー屋やタイ料理店に行く程度であったが、東京に来てからはかなり気軽に行くことができるようになった。ネパールやアルゼンチン料理店なども訪れたが、これらは東京に来るまで見たことがなかった。様々な国から人が集まる東京の懐の深さを思い知った。
第2位: キムワイプ卓球が盛ん
私はキムワイプ卓球のサークルに所属しているが、このスポーツの活動が地球で最も盛んな都市が東京である。東京は競技人口が最も多く、日本製紙クレシアの本社があり、キムワイプ卓球サークルが複数の大学に存在している。このおかげで安定的にキムワイプ卓球の活動ができており、今年は初の研究会が東京で開かれた。また、駒場祭でキムワイプ卓球企画に多くの来場者が集まっているように、キムワイプ卓球コミュニティが外へと広がって行く上で、その中心となっているのも東京である。
このように、東京では研究機関・製紙メーカーが立地するサイエンティフィックな土壌の上にサイエンティフィックな人々が集まって豊かなキムワイプ卓球文化が醸成されている。これは他の都市にはない魅力であった。
第1位: 銭湯が多い
私が最も魅力に感じているのは銭湯の多さである。銭湯がほとんどなかった実家の周辺に対して、東京の銭湯の多さは眼を見張るものがある。数が多いだけでなくバリエーションも豊かで、古くから同じスタイルでやっている趣ある銭湯から、真新しく明るい雰囲気のおしゃれな銭湯まで多種多様である。また、東京にも温泉があり、有機物の溶けた焦げ茶色〜黒色の湯が湧いている。東京の銭湯の中にはこの黒湯を供しているところがあり、これも460円であるからお得である。
様々あるお風呂の湯の中でも、特に私が最も好きなのは炭酸泉である。二酸化炭素が溶け込んだぬるめのお湯は体をじわじわと温めてくれて、疲労回復への効果が高く、入っていて大変心地が良い。炭酸泉のある銭湯には二酸化炭素の気泡を発生させる装置があり、これにより自宅で入浴剤を溶かしたときよりも遥かに高い濃度の炭酸泉となる。このような風呂には東京に来るまで入ったことがなかった。これに手軽に入ることができるのは実に素晴らしいことだといえよう。
このように、東京は多様な顔を見せてくれる都市であり、東京に住んでみると意外に自分に向いた面があることに気づいた。この記事が、東京に住むことを検討する場合の参考になれば幸いである。
(*)ただし、東京は住まなくても都である。
第10位: 文化施設が多い
東京には博物館や美術館が多い。その上、その多くが大きく、たくさんの展示資料があって見飽きることがない。学生のうちから東京に住むことにより、長期休みや全休の日等を利用して、人混みを嫌う私も平日から文化施設に行くことができた。
第9位: 庭園が多い
新宿御苑、六義園、後楽園など、東京には庭園が多い。四季折々の花や、風情ある日本庭園、紅葉を楽しむことができ、これも飽きることがない。また、前田侯爵邸のように、庭園に洋館がある場合もあり、こういったレトロな建築を見るのも面白かった。
第8位: 公共交通が発達している
東京では公共交通によって好きなところに行くことでき、また本数も多く、終電も遅いため非常に便利である。特に、遅刻しがちな私にとっては本数の多さが嬉しい。自動車を持たない学生にとって、公共交通が便利なことは大きなメリットとなる。
第7位: 病院を選べる
実家では、自転車圏内で病院に行こうとするとき選択肢はほとんどなかった。しかし東京では徒歩圏内にいくつもの病院があり、病院を選ぶ余地があった。これには大いに感動した。こうして選んだ病院は、中が明るく綺麗で断然清潔感があり、電子機器を駆使してわかりやすい説明をしてくれるため、かかりつけ医として安心感がある。今では、病院にはできる限り帰省前に行くようにしている。
第6位: 時代錯誤社がいる
東京大学の時代錯誤社というサークルには何度も私の「変人」概念を塗り替えされ、大きく衝撃を受けた。彼らの発行する雑誌「恒河沙」は私の笑いのツボを直撃し、一年生の頃の私にとって心の支えとなった。彼らが新刊を発売するときに行う特徴的な演説も面白く、私は新刊の発売を心待ちにして日々を過ごしていた。特に、政治系サークルの人とメガホン演説で対決し合う様子を生で見ることができたのは大変印象的な出来事であった。
第5位: 豆腐屋が近い
家の近くに豆腐屋があり、ここの豆腐は美味しい。冷奴にしても美味しいし、鍋の具にしても美味しいし、ゴーヤーチャンプルーに使っても美味しい。豆腐は低カロリーなため夜食にも好適で、消化がよく、良質なタンパク質を含み、優れた食材である。豆腐の使用頻度は高いため、質の良い豆腐が手軽に手に入ることは嬉しかった。
また、この豆腐屋では生のおからも扱っている。おからは日持ちがしにくい食材のため普通のスーパーでは売っておらず、近くに豆腐屋がなければ大量に手に入れるのは難しい。おからは食物繊維が豊富で、便通の改善に役立つ。この点でも豆腐屋の存在はありがたかった。
第4位: 選挙が面白い
東京の選挙は独自路線の選挙活動を展開する候補者が多く、地方の選挙と比べてかなり面白い。かの有名な又吉イエスや外山恒一が活動するのも東京であり、昨年の都知事選ではマック赤坂や後藤輝樹の出馬が話題となった。マック赤坂の公約が載った選挙公報を手にした時はある種の感慨を覚えたものである。
立候補者数の多さは、意見の多様性に繋がる。一見奇をてらっているような候補者も、公約をよく読むと検討に値する政策を提案していたり、あるいは地味な泡沫候補が政党の枠に縛られない興味深い公約を掲げていたりする。これらを発見することは、東京ならではの楽しみだと思う。
第3位: エキゾチックな料理店が多い
駒場キャンパス近くの渋谷・下北沢には数多くの料理店が軒を連ねているが、特に私が注目しているのはアジア系の店である。実家の近くにはそのようなお店は少なく、時折インドカレー屋やタイ料理店に行く程度であったが、東京に来てからはかなり気軽に行くことができるようになった。ネパールやアルゼンチン料理店なども訪れたが、これらは東京に来るまで見たことがなかった。様々な国から人が集まる東京の懐の深さを思い知った。
第2位: キムワイプ卓球が盛ん
私はキムワイプ卓球のサークルに所属しているが、このスポーツの活動が地球で最も盛んな都市が東京である。東京は競技人口が最も多く、日本製紙クレシアの本社があり、キムワイプ卓球サークルが複数の大学に存在している。このおかげで安定的にキムワイプ卓球の活動ができており、今年は初の研究会が東京で開かれた。また、駒場祭でキムワイプ卓球企画に多くの来場者が集まっているように、キムワイプ卓球コミュニティが外へと広がって行く上で、その中心となっているのも東京である。
このように、東京では研究機関・製紙メーカーが立地するサイエンティフィックな土壌の上にサイエンティフィックな人々が集まって豊かなキムワイプ卓球文化が醸成されている。これは他の都市にはない魅力であった。
第1位: 銭湯が多い
私が最も魅力に感じているのは銭湯の多さである。銭湯がほとんどなかった実家の周辺に対して、東京の銭湯の多さは眼を見張るものがある。数が多いだけでなくバリエーションも豊かで、古くから同じスタイルでやっている趣ある銭湯から、真新しく明るい雰囲気のおしゃれな銭湯まで多種多様である。また、東京にも温泉があり、有機物の溶けた焦げ茶色〜黒色の湯が湧いている。東京の銭湯の中にはこの黒湯を供しているところがあり、これも460円であるからお得である。
様々あるお風呂の湯の中でも、特に私が最も好きなのは炭酸泉である。二酸化炭素が溶け込んだぬるめのお湯は体をじわじわと温めてくれて、疲労回復への効果が高く、入っていて大変心地が良い。炭酸泉のある銭湯には二酸化炭素の気泡を発生させる装置があり、これにより自宅で入浴剤を溶かしたときよりも遥かに高い濃度の炭酸泉となる。このような風呂には東京に来るまで入ったことがなかった。これに手軽に入ることができるのは実に素晴らしいことだといえよう。
このように、東京は多様な顔を見せてくれる都市であり、東京に住んでみると意外に自分に向いた面があることに気づいた。この記事が、東京に住むことを検討する場合の参考になれば幸いである。
(*)ただし、東京は住まなくても都である。
2017年7月23日日曜日
3行レビュー: 後期教養の授業
【3Sセメスター】
・月2: 科学技術社会論
科学と社会の接点についての講義を受けながら、各自で事例分析を進め発表しレポートにまとめる。
私は国公立大学の運営交付金の問題を取り上げ、その配分はどのように決定されるのが望ましいかについて考えた。学生の発表は内容がバラエティに富んでいて面白かった。
・月3: 物理数学II
フーリエ変換、楕円関数、超幾何級数、ベッセル関数などについて学んだのだが......。
授業は難しすぎて全くわけがわからなかった。周りもよくわかっていなかった。
テストは計算問題だったのでまあまあ解けた。
・月5: 実解析学演習I
ルベーグ積分について、金1の授業で学んだことを毎週のレポートと小テストで確認する。
ルベーグ積分の講義を聞いているときは抽象的でよくわからないと感じたものの、この演習で具体例が出て来ると少し内容を理解できるようになった。
・火2: 量子化学
Slater行列式からHartree-Fock法まで学んだ前半部分の内容は覚えている。
後半から統計力学演習のレポート締切(火曜昼)に追われ次第に出席しなくなっていった。
それでもそこそこの成績はありそうで、単位認定は今学期受けた中で最も甘いと思われる。
・火3,4,5,水3,4,5(S1): 物質科学実験I(光と分子)
主に分子分光実験を行い、量子力学的計算と実験結果が合うかどうかを見る。
芳香族のπ共役系の電子を、井戸型ポテンシャルで考えたとき、ループのある井戸型ポテンシャルで考えたとき、ヒュッケル法で解いたときと実験結果を比べたのが一番面白かった。
・火3,4,5,水3,4,5(S2): 物質科学実験I(分子の機能)
Diels-Alder反応についての実験を行い、その結果を量子化学計算ソフトによる解析結果と比較するのが主な内容である。もう少し量子力学の知識が活かせる内容なのかと思っていたが、中身はゴリゴリの有機化学で、しかも毎週提出のレポートは課題が重くつらかった。
・水1: 数理科学セミナー
4名の学生で、英語で書かれた統計力学の教科書を輪読する。内容としては、古典の統計力学を一通りやり、古典の枠組みで相転移を扱うところまでをやった。
教員との距離が近いのがセミナーの良いところである。今学期で一番良い授業だった。
・水2: 無機化学I
分子軌道法・分子の対称性・酸と塩基・分析法・固体の構造・酸化還元反応・配位化合物と広い内容をそれぞれ浅く学んでいった。というよりほぼ物性化学だった。一年前はよく分からなかったので復習ができて良かったが、こんな簡単に単位をもらってしまってよいものか。
・木2: 統計力学II
量子統計を学ぶ。黒体輻射から始まり、固体の比熱モデル、ボーズ・アインシュタイン凝縮、フェルミ縮退、イジング模型の相転移と学んだ。内容が難しかったので小手先の勉強で試験を乗り越えようとしたらちゃんと難しい問題が出てしまった。不可に違いない。
・木3: 偏微分方程式論
主に熱方程式、波動方程式、ポアソン方程式を扱った。
毎週レポートがあり、しかもあまり解けなかったのはつらかった。
ただ、そのレポートの解説は丁寧でわかりやすく、試験勉強はやっていて楽しかった。
・木4: 量子力学演習I
黒板での発表とレポートの提出で、シュレーディンガー方程式を解いたり、ブラケット計算をしたり、解析力学の問題を解いたりした。何が一番良かったかというと、第四回レポートがそのまま量子力学IIの試験対策になっていたところが一番良かった。
・木5: 統計力学演習
毎週統計力学のレポート問題を解く。答えは学生が黒板で発表する。
この問題は難しい上に分量も多く、実験以外では今学期イチの重い授業であった。
これだけやっても統計力学IIは不可と思われるあたり、統計力学習得への道は遠い。
・金1: 実解析学I
ルベーグ積分論を学ぶ。この授業は教員が面白かった。曰く、「僕はルベーグ積分が専門ではないですし、なんで担当になったのかもよく分からない」「この授業面白いんですかね?」「物理の人は気にしてないのでみんなこの授業で学んだことは今後使わないと思います」などなど。
・金2: 計算数理
数値計算をする上で、どうすれば効率よく精度の良い近似値が得られるかを考察する。
今後研究する上で数値計算をする機会は多いであろうし、役に立つ情報が満載で興味深かった。線形代数の直接の応用を見ることができて感じ入った。
・金3: 計算数理演習
計算数理で学んだことを、コンピューターを使い実際にプログラムを走らせて実験的に検証する。といってもプログラムは既に用意されているという、ゆるふわな授業である。
一番の収穫はLaTeXが使えるようになったことだと思う。
・金4: 量子力学II
角運動量、水素原子、スピン、摂動法、WKB近似、電磁場中のシュレーディンガー方程式といった内容を学んだ。先生の板書の文字は今まで受けた中で最も美しかった。
内容は消化不良気味だが、過去問ゲーだったので単位を取るだけならできているかと思う。
・金5: 物性物理学I
今学期で最も理解が難しかった科目。固体物理として、格子の統計力学と周期ポテンシャル中の電子を学んだようなのだが、教員の頭の回転が鋭すぎて話についていくのが大変困難であった。持ち込み可の試験にも関わらずさっぱり解けず退出する羽目になった。
・月2: 科学技術社会論
科学と社会の接点についての講義を受けながら、各自で事例分析を進め発表しレポートにまとめる。
私は国公立大学の運営交付金の問題を取り上げ、その配分はどのように決定されるのが望ましいかについて考えた。学生の発表は内容がバラエティに富んでいて面白かった。
・月3: 物理数学II
フーリエ変換、楕円関数、超幾何級数、ベッセル関数などについて学んだのだが......。
授業は難しすぎて全くわけがわからなかった。周りもよくわかっていなかった。
テストは計算問題だったのでまあまあ解けた。
・月5: 実解析学演習I
ルベーグ積分について、金1の授業で学んだことを毎週のレポートと小テストで確認する。
ルベーグ積分の講義を聞いているときは抽象的でよくわからないと感じたものの、この演習で具体例が出て来ると少し内容を理解できるようになった。
・火2: 量子化学
Slater行列式からHartree-Fock法まで学んだ前半部分の内容は覚えている。
後半から統計力学演習のレポート締切(火曜昼)に追われ次第に出席しなくなっていった。
それでもそこそこの成績はありそうで、単位認定は今学期受けた中で最も甘いと思われる。
・火3,4,5,水3,4,5(S1): 物質科学実験I(光と分子)
主に分子分光実験を行い、量子力学的計算と実験結果が合うかどうかを見る。
芳香族のπ共役系の電子を、井戸型ポテンシャルで考えたとき、ループのある井戸型ポテンシャルで考えたとき、ヒュッケル法で解いたときと実験結果を比べたのが一番面白かった。
・火3,4,5,水3,4,5(S2): 物質科学実験I(分子の機能)
Diels-Alder反応についての実験を行い、その結果を量子化学計算ソフトによる解析結果と比較するのが主な内容である。もう少し量子力学の知識が活かせる内容なのかと思っていたが、中身はゴリゴリの有機化学で、しかも毎週提出のレポートは課題が重くつらかった。
・水1: 数理科学セミナー
4名の学生で、英語で書かれた統計力学の教科書を輪読する。内容としては、古典の統計力学を一通りやり、古典の枠組みで相転移を扱うところまでをやった。
教員との距離が近いのがセミナーの良いところである。今学期で一番良い授業だった。
・水2: 無機化学I
分子軌道法・分子の対称性・酸と塩基・分析法・固体の構造・酸化還元反応・配位化合物と広い内容をそれぞれ浅く学んでいった。というよりほぼ物性化学だった。一年前はよく分からなかったので復習ができて良かったが、こんな簡単に単位をもらってしまってよいものか。
・木2: 統計力学II
量子統計を学ぶ。黒体輻射から始まり、固体の比熱モデル、ボーズ・アインシュタイン凝縮、フェルミ縮退、イジング模型の相転移と学んだ。内容が難しかったので小手先の勉強で試験を乗り越えようとしたらちゃんと難しい問題が出てしまった。不可に違いない。
・木3: 偏微分方程式論
主に熱方程式、波動方程式、ポアソン方程式を扱った。
毎週レポートがあり、しかもあまり解けなかったのはつらかった。
ただ、そのレポートの解説は丁寧でわかりやすく、試験勉強はやっていて楽しかった。
・木4: 量子力学演習I
黒板での発表とレポートの提出で、シュレーディンガー方程式を解いたり、ブラケット計算をしたり、解析力学の問題を解いたりした。何が一番良かったかというと、第四回レポートがそのまま量子力学IIの試験対策になっていたところが一番良かった。
・木5: 統計力学演習
毎週統計力学のレポート問題を解く。答えは学生が黒板で発表する。
この問題は難しい上に分量も多く、実験以外では今学期イチの重い授業であった。
これだけやっても統計力学IIは不可と思われるあたり、統計力学習得への道は遠い。
・金1: 実解析学I
ルベーグ積分論を学ぶ。この授業は教員が面白かった。曰く、「僕はルベーグ積分が専門ではないですし、なんで担当になったのかもよく分からない」「この授業面白いんですかね?」「物理の人は気にしてないのでみんなこの授業で学んだことは今後使わないと思います」などなど。
・金2: 計算数理
数値計算をする上で、どうすれば効率よく精度の良い近似値が得られるかを考察する。
今後研究する上で数値計算をする機会は多いであろうし、役に立つ情報が満載で興味深かった。線形代数の直接の応用を見ることができて感じ入った。
・金3: 計算数理演習
計算数理で学んだことを、コンピューターを使い実際にプログラムを走らせて実験的に検証する。といってもプログラムは既に用意されているという、ゆるふわな授業である。
一番の収穫はLaTeXが使えるようになったことだと思う。
・金4: 量子力学II
角運動量、水素原子、スピン、摂動法、WKB近似、電磁場中のシュレーディンガー方程式といった内容を学んだ。先生の板書の文字は今まで受けた中で最も美しかった。
内容は消化不良気味だが、過去問ゲーだったので単位を取るだけならできているかと思う。
・金5: 物性物理学I
今学期で最も理解が難しかった科目。固体物理として、格子の統計力学と周期ポテンシャル中の電子を学んだようなのだが、教員の頭の回転が鋭すぎて話についていくのが大変困難であった。持ち込み可の試験にも関わらずさっぱり解けず退出する羽目になった。
2017年6月17日土曜日
なぜこの世はかくも生きにくいのか?
私は現在、生物物理に興味がある。生物を物理学の視点から考察して何か述べようという学問だ。その理由の一端を今から述べよう。
この世界で生きるのは非常に大変である。やらなければいけないことが多くあり、我々は多忙な日々を送らなければならない。もっとのんびりと生きたいのに、どうしてこれほどせわしなく生きなければならないのだろう。ある日、私はそう疑問に思った。
のんびりゆったりと生きる上で、まず直面する問題は金銭である。金銭を得るためには労働が必要であり、労働すると時間を失うため、私の欲望の実現の上での直接的な障害は金銭的問題ということになる。
この金銭的問題の正体についてより分析を深めてみよう。金銭が必要なのは、第一には食べるためである。金銭が尽きると飢えて苦しみを覚えてしまうため、苦しみの少ないゆったりした生活を送る上で、食べることは絶対に必要である。
なぜ私は食べなければならないのだろうか。それはエネルギーを補給するためである。我々は生命活動の維持のために絶えずエネルギーを消費しており、その補給無しには生命活動が維持できず死亡してしまうのだ。しかし考えてみれば、この世界にはエネルギー保存の法則というものがあり、エネルギーを消費すると言っても実のところエネルギーは形を変えるだけである。なぜエネルギーの補給は必要なのだろうか。
ここで重要なのは、エネルギーそのものよりも「自由エネルギー」である。自由エネルギーは熱力学で登場する概念で、仕事として取り出すことのできるエネルギー量を表す。ヘルムホルツの自由エネルギーFは、内部エネルギーUと温度T、エントロピーSを用いて F=U-TSで表される。ギブスの自由エネルギーGならG=U-TS+pVである。ともかくも、エネルギーを補給せずにいると、自由エネルギーは熱力学第二法則にしたがって減少していき、生命活動の維持が困難になっていくという次第である。
従って、この世がかくも生きにくいのはエントロピーの増大が原因ということになる。この世界で乱雑さが増えていき、機械でもなんでも、次第に壊れていくのもエントロピー増大が原因と見做すことができそうであるから、金銭的問題のほとんどは熱力学第二法則に帰することができるだろう。
しかし、果たして本当に熱力学第二法則が諸悪の根源なのだろうか。エントロピー増大は、統計力学的視点で見直せば確率の問題と捉えることができる。すなわち、モノが秩序立つ確率よりもモノの秩序が乱れる確率の方が圧倒的に高い、そしてこれがエントロピーの増大である、と。こう考えれば、エントロピーの増大自体は仕方ないことのように思われる。
問題は時間である。エントロピー増大が速すぎるのだ。逆にエントロピー増大を基準にして考えれば、エントロピーが1増えるのにかかる時間が概して短すぎる。だから自由エネルギーは猛烈に減ってゆき、食べても食べても私は毎日空腹になり、人間は働くことを強いられるのだ。であるから、生命がもし時間をもっとゆっくりに感じることができれば、相対的にエントロピー増大も緩やかに感じられ、我々の生活ももっとゆったりするはずである。なぜ時間は、私の感覚に比べ、そして私の体におけるエントロピーの増大スピードに比べ、これほどまでに早く進んでしまうのだろうか。
生命と時間といえば、その総量を規定するものとして思い浮かぶのが寿命である。我々生命はエントロピー増大に必死に抗って複雑な構造を維持し続けている。それでも我々が生きていくうちに次第にいろいろな臓器が悪くなっていくことを思えば、エントロピー増大に抗い続け、それでも維持しきれなくなった地点として寿命が決まってくると捉えられるのではなかろうか。
そこで思い出すのが、「ゾウの時間 ネズミの時間」という絵本だ(*)。小学生の頃この本を読んで、(今の私の語彙を用いて表現すれば)生命観が揺らぐ衝撃を受けたことを今でも印象深く覚えている。私の記憶によれば、この絵本は次のような内容であった: 「ゾウは長命で、ネズミは短命である。しかし一生のうちに鳴る心臓の回数を調べてみたところ、ほぼ同じであった。ゾウは体が大きい分体積の割に表面積が小さいため、熱を保持しやすくゆっくり動く。対してネズミは体が小さい分体積の割に表面積が大きいため、熱を失いやすく常に走り回って餌を求める必要がある。寿命は違えど、彼らが生きているうちに感じる時間は同じなのである」。
熱を失いやすいということは、エントロピーがより増大しやすいということだ。ということは、エントロピー増大速度に対する時間の感じ方は生物の種類によらずほぼ一定であると考えることはできないだろうか。
生命はエントロピー増大に抵抗し秩序を長時間維持し続ける特異な存在である。思うに、生命システムはエントロピー増大に抵抗することからしか生まれないのではなかろうか。そしてそのシステムの時間スケールは、そのシステムが抵抗しているエントロピー増大速度に依存しているのではなかろうか。
もしそうならば、「生命がもし時間をもっとゆっくりに感じることができれば、相対的にエントロピー増大も緩やかに感じられ、我々の生活ももっとゆったりするはず」なんてことはそもそも物理法則の帰結として不可能だということになる。あるいは、もし生命が時間をゆっくり感じることが可能だったとしても、それはナマケモノのように恐ろしく低出力なシステムとなり、現在のヒトのように様々な活動をして遊びを楽しむ余地はなくなってしまいそうである。
エントロピーの増大は不可逆過程であり、その中身は非平衡の統計力学で扱わねばならない。現在、平衡の統計力学の理論に関しては多くのことがわかっているが、非平衡に関してはまだほとんど何もわかっていないそうだ。私は、生命と時間の普遍的な関係を、非平衡系の時間発展を統計力学的に考えることによって探っていければきっと面白いだろうと思っている。
私は自分が忙しい理由を知るために物理学を学んでいる。そして私は物理学を学んでいるがために、忙しい日々を送っている。
(*)元は新書であることを今知った。読んでみたい。
この世界で生きるのは非常に大変である。やらなければいけないことが多くあり、我々は多忙な日々を送らなければならない。もっとのんびりと生きたいのに、どうしてこれほどせわしなく生きなければならないのだろう。ある日、私はそう疑問に思った。
のんびりゆったりと生きる上で、まず直面する問題は金銭である。金銭を得るためには労働が必要であり、労働すると時間を失うため、私の欲望の実現の上での直接的な障害は金銭的問題ということになる。
この金銭的問題の正体についてより分析を深めてみよう。金銭が必要なのは、第一には食べるためである。金銭が尽きると飢えて苦しみを覚えてしまうため、苦しみの少ないゆったりした生活を送る上で、食べることは絶対に必要である。
なぜ私は食べなければならないのだろうか。それはエネルギーを補給するためである。我々は生命活動の維持のために絶えずエネルギーを消費しており、その補給無しには生命活動が維持できず死亡してしまうのだ。しかし考えてみれば、この世界にはエネルギー保存の法則というものがあり、エネルギーを消費すると言っても実のところエネルギーは形を変えるだけである。なぜエネルギーの補給は必要なのだろうか。
ここで重要なのは、エネルギーそのものよりも「自由エネルギー」である。自由エネルギーは熱力学で登場する概念で、仕事として取り出すことのできるエネルギー量を表す。ヘルムホルツの自由エネルギーFは、内部エネルギーUと温度T、エントロピーSを用いて F=U-TSで表される。ギブスの自由エネルギーGならG=U-TS+pVである。ともかくも、エネルギーを補給せずにいると、自由エネルギーは熱力学第二法則にしたがって減少していき、生命活動の維持が困難になっていくという次第である。
従って、この世がかくも生きにくいのはエントロピーの増大が原因ということになる。この世界で乱雑さが増えていき、機械でもなんでも、次第に壊れていくのもエントロピー増大が原因と見做すことができそうであるから、金銭的問題のほとんどは熱力学第二法則に帰することができるだろう。
しかし、果たして本当に熱力学第二法則が諸悪の根源なのだろうか。エントロピー増大は、統計力学的視点で見直せば確率の問題と捉えることができる。すなわち、モノが秩序立つ確率よりもモノの秩序が乱れる確率の方が圧倒的に高い、そしてこれがエントロピーの増大である、と。こう考えれば、エントロピーの増大自体は仕方ないことのように思われる。
問題は時間である。エントロピー増大が速すぎるのだ。逆にエントロピー増大を基準にして考えれば、エントロピーが1増えるのにかかる時間が概して短すぎる。だから自由エネルギーは猛烈に減ってゆき、食べても食べても私は毎日空腹になり、人間は働くことを強いられるのだ。であるから、生命がもし時間をもっとゆっくりに感じることができれば、相対的にエントロピー増大も緩やかに感じられ、我々の生活ももっとゆったりするはずである。なぜ時間は、私の感覚に比べ、そして私の体におけるエントロピーの増大スピードに比べ、これほどまでに早く進んでしまうのだろうか。
生命と時間といえば、その総量を規定するものとして思い浮かぶのが寿命である。我々生命はエントロピー増大に必死に抗って複雑な構造を維持し続けている。それでも我々が生きていくうちに次第にいろいろな臓器が悪くなっていくことを思えば、エントロピー増大に抗い続け、それでも維持しきれなくなった地点として寿命が決まってくると捉えられるのではなかろうか。
そこで思い出すのが、「ゾウの時間 ネズミの時間」という絵本だ(*)。小学生の頃この本を読んで、(今の私の語彙を用いて表現すれば)生命観が揺らぐ衝撃を受けたことを今でも印象深く覚えている。私の記憶によれば、この絵本は次のような内容であった: 「ゾウは長命で、ネズミは短命である。しかし一生のうちに鳴る心臓の回数を調べてみたところ、ほぼ同じであった。ゾウは体が大きい分体積の割に表面積が小さいため、熱を保持しやすくゆっくり動く。対してネズミは体が小さい分体積の割に表面積が大きいため、熱を失いやすく常に走り回って餌を求める必要がある。寿命は違えど、彼らが生きているうちに感じる時間は同じなのである」。
熱を失いやすいということは、エントロピーがより増大しやすいということだ。ということは、エントロピー増大速度に対する時間の感じ方は生物の種類によらずほぼ一定であると考えることはできないだろうか。
生命はエントロピー増大に抵抗し秩序を長時間維持し続ける特異な存在である。思うに、生命システムはエントロピー増大に抵抗することからしか生まれないのではなかろうか。そしてそのシステムの時間スケールは、そのシステムが抵抗しているエントロピー増大速度に依存しているのではなかろうか。
もしそうならば、「生命がもし時間をもっとゆっくりに感じることができれば、相対的にエントロピー増大も緩やかに感じられ、我々の生活ももっとゆったりするはず」なんてことはそもそも物理法則の帰結として不可能だということになる。あるいは、もし生命が時間をゆっくり感じることが可能だったとしても、それはナマケモノのように恐ろしく低出力なシステムとなり、現在のヒトのように様々な活動をして遊びを楽しむ余地はなくなってしまいそうである。
エントロピーの増大は不可逆過程であり、その中身は非平衡の統計力学で扱わねばならない。現在、平衡の統計力学の理論に関しては多くのことがわかっているが、非平衡に関してはまだほとんど何もわかっていないそうだ。私は、生命と時間の普遍的な関係を、非平衡系の時間発展を統計力学的に考えることによって探っていければきっと面白いだろうと思っている。
私は自分が忙しい理由を知るために物理学を学んでいる。そして私は物理学を学んでいるがために、忙しい日々を送っている。
(*)元は新書であることを今知った。読んでみたい。
2017年5月26日金曜日
2017年5月19日金曜日
自己PR
ある友人が自己PRを書くという授業内課題で悩んでいるのを見かけた。彼は宗教(特にオウム真理教(*))への関心が高く、そのことについて述べたところ「不謹慎」と酷評されてしまったそうだ。
私が彼と親しい人間であるのは、彼と似たところがあるからだろう。私も自己PRを書けと言われたら困ってしまう。しかし自分の苦手なことでもあえて取り組んでみようではないか。不謹慎でない自己PR文を完成させてみせよう。そう思って簡単な自己PRを書いてみたところ、次のような文章が出来上がった。
私が得意なことは、何かにつけてメタ的に思考することです。といってもどういうことかわからないでしょうから、これから具体的に私のメタ的思考とはどういうものかお見せしたいと思います。
これは自分をPRするために書いている文章なのですが、自分をPRしろと言われてもこれは簡単にできるものではございません。そもそも世界には70億人もの人間がいるわけですから、その人を構成する要素の組み合わせとしてオンリーワンになるのならともかく、ある特定の分野で秀でてナンバーワンになるということは大変困難なことだと推測されます。私は天才ではありませんから、コレコレの分野で私はナンバーワンです、と申し上げることはできません。これは他の学生にとっても同様でしょう。それでも自己PRというのは多くの人がやっていることです。このことは、自分をPRするにあたって、何かでナンバーワンである必要はないということを示唆しています。
ではナンバーワンでないなら何を以って自分の特性を他者にPRしているのでしょうか。おそらく、ナンバーワンよりも条件をもっと緩めて、「珍しさ」をPRしているのだと思います。例えば、学生のうちに粘り強くスポーツに取り組んでこれこれの成績を収めた、というお話は、その成績を取れる人が、あるいはそれほどの粘り強さを持った人が、ちょっとやそっとでは見つけられない珍しいものだから価値があるのだと考えられます。このように、多くの学生は、自分を逃すとコレコレの点において自分ほど秀でた人はなかなか見つかりませんよ、ということを言って自分をPRしているのです。
さて、こうして自己PRとはどういうものかについて色々論じあげてきたのですが、こうした文章を書くというのが、私は自分の得意とすることだと考えております。つまりどういうことかと言いますと、例えば「自己PRをしてください」と言われた時、私は自己PRを行う前にあらためて「自己PR」という枠組みを問い直して自分が何をしようとしているか考える、ということを行う習性があるのです。この、根本からしっかり考え抜くという姿勢を持った人は、私以外で見つけることは結構難しいのではないかと自負しております。
さきほど、「自己PRを行う"前"にあらためて「自己PR」という枠組みを考えた」、これが私のアピールポイントだと申し上げましたが、これには少し語弊があります。なぜなら私の自己PRとは「あらためて「自己PR」という枠組みを考えた」ことそのものであり、これは「自己PR」の前に行われたことではないからです。同時進行というのも少し違います。というのも、この文章の中で、自己PRをすることと、自己PRをすることについて考えることは完全に一体となって行われていたからです。この2つが一体となった文章を生み出した思考方式が、私が「メタ的思考」と呼んでいるものです。メタ的、というのは、「「自己PR」について考えること」それ自体が私の「自己PR」になっているというある種自己言及的な構造のことを指して申し上げております。
何やら複雑なことを申し上げましたから、だんだんこんがらがってきたかもしれません。あなたがこの文章をすんなりと理解できずこんがらがっているとすれば、それはあなたは今普段ならしないような思考方式をしているからだと思います。このことは私のような存在の「珍しさ」を示唆しているといえるのではないでしょうか。普通の人ならあまりしないような思考経路を持っている、その「メタ的思考」こそが私のPRしたいポイントなのです。
一口に自己PRといってもその内容は書く人次第で様々であろう。しかし内容は様々でも形式は案外画一的なものである。私はそこに目をつけて、形式と内容の両面から自分を表現するという差別化戦略をとった、というわけである。
(*)cf. 「卒業式」
私が彼と親しい人間であるのは、彼と似たところがあるからだろう。私も自己PRを書けと言われたら困ってしまう。しかし自分の苦手なことでもあえて取り組んでみようではないか。不謹慎でない自己PR文を完成させてみせよう。そう思って簡単な自己PRを書いてみたところ、次のような文章が出来上がった。
私が得意なことは、何かにつけてメタ的に思考することです。といってもどういうことかわからないでしょうから、これから具体的に私のメタ的思考とはどういうものかお見せしたいと思います。
これは自分をPRするために書いている文章なのですが、自分をPRしろと言われてもこれは簡単にできるものではございません。そもそも世界には70億人もの人間がいるわけですから、その人を構成する要素の組み合わせとしてオンリーワンになるのならともかく、ある特定の分野で秀でてナンバーワンになるということは大変困難なことだと推測されます。私は天才ではありませんから、コレコレの分野で私はナンバーワンです、と申し上げることはできません。これは他の学生にとっても同様でしょう。それでも自己PRというのは多くの人がやっていることです。このことは、自分をPRするにあたって、何かでナンバーワンである必要はないということを示唆しています。
ではナンバーワンでないなら何を以って自分の特性を他者にPRしているのでしょうか。おそらく、ナンバーワンよりも条件をもっと緩めて、「珍しさ」をPRしているのだと思います。例えば、学生のうちに粘り強くスポーツに取り組んでこれこれの成績を収めた、というお話は、その成績を取れる人が、あるいはそれほどの粘り強さを持った人が、ちょっとやそっとでは見つけられない珍しいものだから価値があるのだと考えられます。このように、多くの学生は、自分を逃すとコレコレの点において自分ほど秀でた人はなかなか見つかりませんよ、ということを言って自分をPRしているのです。
さて、こうして自己PRとはどういうものかについて色々論じあげてきたのですが、こうした文章を書くというのが、私は自分の得意とすることだと考えております。つまりどういうことかと言いますと、例えば「自己PRをしてください」と言われた時、私は自己PRを行う前にあらためて「自己PR」という枠組みを問い直して自分が何をしようとしているか考える、ということを行う習性があるのです。この、根本からしっかり考え抜くという姿勢を持った人は、私以外で見つけることは結構難しいのではないかと自負しております。
さきほど、「自己PRを行う"前"にあらためて「自己PR」という枠組みを考えた」、これが私のアピールポイントだと申し上げましたが、これには少し語弊があります。なぜなら私の自己PRとは「あらためて「自己PR」という枠組みを考えた」ことそのものであり、これは「自己PR」の前に行われたことではないからです。同時進行というのも少し違います。というのも、この文章の中で、自己PRをすることと、自己PRをすることについて考えることは完全に一体となって行われていたからです。この2つが一体となった文章を生み出した思考方式が、私が「メタ的思考」と呼んでいるものです。メタ的、というのは、「「自己PR」について考えること」それ自体が私の「自己PR」になっているというある種自己言及的な構造のことを指して申し上げております。
何やら複雑なことを申し上げましたから、だんだんこんがらがってきたかもしれません。あなたがこの文章をすんなりと理解できずこんがらがっているとすれば、それはあなたは今普段ならしないような思考方式をしているからだと思います。このことは私のような存在の「珍しさ」を示唆しているといえるのではないでしょうか。普通の人ならあまりしないような思考経路を持っている、その「メタ的思考」こそが私のPRしたいポイントなのです。
一口に自己PRといってもその内容は書く人次第で様々であろう。しかし内容は様々でも形式は案外画一的なものである。私はそこに目をつけて、形式と内容の両面から自分を表現するという差別化戦略をとった、というわけである。
(*)cf. 「卒業式」
2017年5月6日土曜日
忘憂
タスクが多い。
常に多くのタスクがあるため、ほぼ全ての遊びは「タスクを放置してする遊び」となってしまう。従って、遊んでいる最中がいくら楽しかろうとも終わればつらい気持ちになるし、遊んでいる最中に急に楽しさが失われてしまうこともある。薬物は一時的に快楽を与えるが、効果が切れると苦痛を覚えるのと同様である。
憂いがあるため忘憂を必要とする一方で、憂いがあるために忘憂が妨げられる。忘憂は実にパラドキシカルな行為だと思う。忘憂とは止揚である。休憩の難しさとは、止揚の難しさに他ならない。
ここのところ常に焦燥を抱えていて、余裕に欠ける。もっと遊びや寄り道を大切にしたい。ゆったりと生きたいものだ。余裕の喪失は彩りの喪失である。
この記事も、こんなもの書く暇があればレポートを先に書くべきだろうに自分は何をやっているのだろうと思いながら書いている。
常に多くのタスクがあるため、ほぼ全ての遊びは「タスクを放置してする遊び」となってしまう。従って、遊んでいる最中がいくら楽しかろうとも終わればつらい気持ちになるし、遊んでいる最中に急に楽しさが失われてしまうこともある。薬物は一時的に快楽を与えるが、効果が切れると苦痛を覚えるのと同様である。
憂いがあるため忘憂を必要とする一方で、憂いがあるために忘憂が妨げられる。忘憂は実にパラドキシカルな行為だと思う。忘憂とは止揚である。休憩の難しさとは、止揚の難しさに他ならない。
ここのところ常に焦燥を抱えていて、余裕に欠ける。もっと遊びや寄り道を大切にしたい。ゆったりと生きたいものだ。余裕の喪失は彩りの喪失である。
この記事も、こんなもの書く暇があればレポートを先に書くべきだろうに自分は何をやっているのだろうと思いながら書いている。
登録:
投稿 (Atom)
