2016年3月31日木曜日

書く速度ω

<0:15 執筆開始>

文章を書くというのは、なかなか時間がかかることに気がついた。特に、このblogには思考や体験の内容を整理された形で書いている。「整理された」というのは、たとえばtwitterのように、思ったことを深く考えずに書くのとは異なる、という意味だ。そしてこの「整理して」書くというのが曲者である。
文の集まりが「文章」として成立するためには、文と文が論理的文脈で強く結ばれる必要がある。ゆえに、私は文の全体的構造を意識しながらこの記事を書いている。評論を読むときに部分と全体の往復が必要とされるのと全く同様に、文章を書くときも部分と全体の往復が必要とされるはずだ。(※1)
このようにして書いていると、時間がかかった割にできる文章の量が少ない。今こうして記事を書いている己を観察してみると、文を直接生むわけではない、段落構成や接続詞の検討といった作業に時間を要していることが発見できた。文を直接生む作業を行うときの私は、その文という部分に奉仕しており、文章全体を見ていない。従って、文を生んだ前後で全体を見渡しながら推敲するという、別個の作業が必要とされるのだ。
私の連続的な思考によって生み出されたはずの文の集積は、思考が備えていたはずの連続性を失っているようにみえる。思考したことを記すといっても、実際の思考過程は論理構造を不完全にしか備えていないもっと混沌と絡まったものだからだろう。思考や推論の一貫した論理構造というものは、文章にすることで初めて立ち現れてくる。書くのに時間がかかるのは、その実、文の集積から文章としての論理構造を形成するのに時間がかかっているためだったのだ。 (※2)

ところでこの記事。文と文章という二項対立が話の軸にあり、さながら現代文の素材といった様相を呈している。

※1)「全体を貫く論理構造がある文章を読む際は、その論理構造を意識せねばならない」と考えると当然の話かもしれない。ものは書かれた後に読まれるのだから、ここでは記述が逆転してしまっている。つまり、「ものを書くときは、ものを読むときと同様の方法にのっとって書く」という調子の記述は不適切で、「ものを読むときは、それが書かれたときと同様の方法にのっとって読む」のような記述が適切なのだろう。
※2)そういえば、数学の応用問題を解くのに大抵着想から20~30分ほどもかかる。

<1:40執筆終了>

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