2018年10月2日火曜日

つい洗剤を出しすぎてしまい困る

ここ数日、つい食器用洗剤を出しすぎてしまう傾向にある。洗剤の出しすぎは、水質汚染、水資源の過剰利用、皮膚への悪影響、生活コストの増大、赤潮、漁業の衰退、QOLの低下、経済の低迷、人心の荒廃、そして最終的には死を招くとされる由々しき問題であり、私はこの問題の対処に手を焼いている。一体どうしてこんな事態になってしまったのか、その経緯を振り返ってみたい。

私はここ一年間、食器用洗剤としてキュキュットを使用している。洗剤の選択に関して特に信念があるわけではなく、キュキュットなのはたまたまである。食器用洗剤はおよそ二年に一本のペースで消費しており、これは大学入学してから二本目の食器用洗剤だ。以前は別のものを使用していたが、何を使っていたのかはもう覚えていない。重要視していることさえ容易に忘れてしまうのだから、洗剤の種類のように重要視していないことは尚更容易に忘れてしまうのだ。
さて、一年強ほどこのキュキュットを使ってきたわけだが、その結果、洗剤の出口の周囲で以前洗剤だったものがまるで怨念のようにこびりついて固まり、洗剤のスポンジへの滴下を妨げるようになってきた。そう、かつては同じ洗剤の同胞であったのに、スポンジへの着地に失敗してしまったたがために、社会の不要物としての謗りを免れることができず、日に日に怨念を募らせ、同胞の活躍を妨害するようにまでなってしまったのだ。私は同情と憐れみを含んだ視線で洗剤だった塊を一瞥した。人で例えるなら......仕事に就くことができず、日々の鬱屈した生活に不満を募らせ、ついに通り魔に走った犯罪者、といったところだろうか。人に例えない方が同情できそうだ。
あるいはこう言っても良い。洗剤塊はまるで凝り固まった古い考えのようにこびりついていた。人で例えるなら、自らの不要性を自覚できず、凝り固まった古い考えに支配され、同胞の活躍を無意識のうちに妨げてしまう老害である。洗剤塊を眺めながら、こうはなりたくないものだと私は自戒した。

話を戻そう。結局何が言いたかったかというと、洗剤の塊が洗剤の出口を塞いでいたということだ。通り魔にせよ老害にせよ、これを排除しなければならない、私はそう決意した。そして、ボトルの蓋を取り外し、お湯に付け、固まった洗剤塊を爪楊枝で何度も掻き出すことにより、洗剤塊を取り除くことに成功した。これがそのボトルだ。一番上の突起のようになっている部分の中と外で洗剤だったものが大量にこびりついていた訳である。

洗剤塊を除去された後のボトル

ちなみに、このボトルにはクリア除菌と書いてあるが、私が持っているボトルの底面は見たところ全く除菌されていなかった。意外だろうが、洗剤に除菌機能があっても、ボトルには除菌機能がないと推測するしかない。もしあなたがキュキュットの購入を検討しているならば、このことは気に留めておくべきだ。底面を自動的に除菌する機能がついた洗剤ボトルの速やかな開発が待たれる。それにしても、あの底面は思わず地球上の生物の多様性について思いを馳せてしまうような有様であった。もしかしたら、皿から除かれた菌たちが、まるで反政府ゲリラが拠点に集まるように、ここに集結しているのかもしれない。

話を戻そう。この処置の結果、相当な圧力をボトルに加えてようやく一滴が落ちるという具合だったのが、軽く握れば適量が出るようになった。これを受けて私は満足して就床したが、翌日洗剤を使おうとして驚いた。出すぎるのだ。あまりにも出るので、一時は洗剤だけでなく幽霊まで出たのかと思ったほどだ。幽霊が出たのかと思ったのだから驚くのも当たり前である。私はホラーが苦手なのだ。
話を戻そう。洗剤が過剰に出てしまったのは、洗剤の使用にかなりの圧力を要求されることに慣れてしまって、ついボトルを押しすぎてしまうからである。この洗剤の出しすぎは、それから数日経った今でも続いている。洗剤の過剰な使用は最初に述べた通り重要視すべき問題なのだが、それでも前回の教訓をすぐに忘れてしまうのだ。このように、外力を受けない限り、人は現在の習慣をそのまま続けようとする性質を持っている。人は急激な環境の変化についていけないのだ。これは慣性の法則と呼ばれている。
話を逸らそう。洗剤と言って思い出されるのは、「洗剤」という掌編小説である(*1)。掌編小説「洗剤」は、中学生の頃、私のある友人によって国語の授業の課題として提出されたものだ。 与えられた課題は、「ジーンズを洗って干した」の冒頭部分で知られる高橋順子の詩「ジーンズ」を小説へと翻案せよ、という内容だった。それを彼は、「ジーンズを洗って干した。洗剤はもちろんトップだ」と書き始め、ジーンズの洗い方に並々ならぬ信念を持った主人公を描く、洗剤の選択がテーマの奇天烈な小説にしてしまった。これが傑作で(*2)、 何度読んでも大笑いできる代物だったのだが、 詳しい内容は忘れてしまった。私の笑いの価値観に影響を与えた重要な作品だっただけに残念である。それはそうと、一体どんな頭の構造をしていたらあんな文章がかけるのだろうか。世界は不思議で満ちている。

話を戻そう。結局何が言いたかったかというと、人は急激な環境の変化についていけないということだ(*3)。最近は暑かった夏が終わり気温が急激に下がるだけでは飽き足らず、台風や新学期まで到来する始末である。体調を崩したり怪我を負ったりすることのないよう、どうか健康に気をつけてほしい。

(*1)他に洗剤から思い出されるのは、また別の友達の部屋で皿洗いをしたときに、「そんなにしっかり洗わなくていいよ。洗ったという事実を重視しているから」と言われた出来事である。
(*2)その後しばらくして、学校がまとめた海外交流体験事業の感想文集が配布されたのだが、彼のページにはなぜか感想文ではなく「洗剤」が掲載されていた。彼はきちんと感想文を提出したにも関わらず、である。傑作のオーラが編集者の目をくらませたのだろうか。脈絡のない奇襲を受けた私は再び笑い転げてしまった。
(*3)付け加えれば、重要視していても忘れてしまうことは頻繁にあるので、私が何かを忘れていてもあまり強く非難しないであげてほしいということだ。

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