2018年6月28日木曜日

K.如才は気付かない

今日、大学に行って友人と話をしていると、友人甲が友人乙に「髪切ったね」と言った。乙はそれを認めた。丙は「気付いていたけど言うタイミングを逃してしまって」と言った。私は気付いていなかった。
確かに、言われてみればすっきりした感じがする。そこで、「あー、確かに。言われてみればすっきりした感じがする」と言ったところ、笑われた。

それにしても、このような日々の小さな変化にロクに気付くことができない。思い返してみれば、近くに建物が新しく建ったことにも、花が季節の変化を告げたことにも私は気付けずに、友達や家族に教わることばかりであった。
私は、友人の散髪にただ1人気付くことができなかった己を恥じた。そして、こうして日常に潜む細やかな驚きへの感受性を失い、本当は豊かな発見で満ちた世界の中であらゆる新鮮な色彩を見逃し、今後の人生を灰色の退屈と倦怠で満たしていくのかと思うと、将来に暗い影が落とされるかのように感じられた。
これは嘘で、話を盛った。

とはいえ、小さい変化に気付ける人間になりたいのは本当である。私はそうなりたいと切に願っているのだが、残念ながら変化に気付く能力に欠けているようだ。おそらく、世界が「見え」ていないのだろう。もちろん友人の頭髪くらい視界には入っているのだが、私の脳を素通りしてしまっている。右の耳から左の耳、右の目から左の目、右の脳から左の脳、右の腎臓から左の腎臓へという具合である。もし私の消化器が上下ではなく右手から左手へと左右方向に伸びていたら、食物が素通りし消化不良に陥って餓死していたことだろう。

このように、私は変化に鈍感なため、いずれ接近する車に気付けずに轢き殺されるのでは、味の変化に気付けないまま毒入り料理を平らげて毒殺されるのでは、友人に変装した刺客に気付けずに暗殺されるのでは、消化器の配置がある日突然変わって食物が素通りし始め餓死するのでは、などなど生命の危険を感じながら日々怯えて暮らしている。些細な変化にも気付く能力を一刻も早く養って、希望と色彩に満ちた毎日を安心して送れるようになりたいものである。

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