2019年5月13日月曜日

初恋・下

前編: 「初恋・上」

私はなけなしのファッションセンスを振り絞って服を選び、肌にはクリームを塗って保湿をし、柄にもなく整髪料をつけて、できる限りのおしゃれをした。変でないだろうかと不安になり、何度も鏡で確認した。私は緊張とともに彼女に会った。彼女はスカートを履いていた。彼女のスカート姿を見るのは、一体いつ以来のことだろうか。珍しい。新鮮だ。可愛い。嬉しい。感情が私の頭を駆け巡った。同時に、私は告白への決意を新たにした。私は、彼女と手を繋いで帰りたいと強く思った。一体、彼女の手を握るとどんな感触がするのだろうか。私は赤面した。
ハーブ園は六甲山の上に作られており、山麓の市街地とはロープウェーで結ばれている。三宮で昼食にオムライスを食べてから、私と彼女はロープウェーの駅に向かった。ロープウェーは6人乗りで、2人きりの空間でこそなかったが、彼女の隣に座ることができたのは嬉しかった。心から好きな人の隣にいられるというのがこんなにも嬉しいことだとは、私はこの日に至るまで知らなかった。ロープウェーは、静かに広がるダム湖の姿を私の前に示して見せた。私の心は高揚感で満たされた。

私と彼女はロープウェーから降りた。ハーブ園からは、神戸の都市を一望できた。日差しが強く蒸し暑さのあった街の中とは対照的に、山の上では涼しい風が吹いていた。人が多く混んではいたが、開放感があって爽やかだった。
神戸を見下ろす写真を撮ってから、ハーブ園の中を見て回った。2人で小瓶に入った香り付きの精油を嗅いで(*1)、この香りが好きだなんだと言い合った。温室で植物を観察していると、彼女は食用ハーブに関する様々な体験を語ってくれた。そういえば、3月に会ったときも彼女は食べることが好きなのだと言っていた。彼女も楽しんでくれているようだった。
屋外ではネモフィラの花が見頃を迎えていた。私は花畑の写真を撮った。撮影した写真を見ると、当たり前だが、撮った花が写っていた。私は、彼女の写真を撮りたいとふと思った。私は彼女の方を向いた。彼女は花を眺めていた。恋人になれれば、彼女の写真もたくさん撮ることができるだろうか。それは、毎朝彼女の写真を見てから登校できるということか。それって、すごく、なんというか......。初夏の日差しを受けた頭が、熱を帯びてじりじりと痺れた。その熱が体全体へと伝わるとともに、胸が締め付けられて呼吸するのが苦しくなった。体の自由が効かなくなり、私はその場に立ち尽くした。この陶酔しきった頭では、何も考えることができない。もう、こうしてただ彼女を見ていることしかできない......。
不意に、彼女がこちらを向いた。私ははっとして、慌てて目を逸らした。そして、その一瞬で掻き集めた理性を動かして、何事もなかった風を装った。私は、いつの間にか彼女に見惚れていたのだった。
そうこうしているうちに、私と彼女はハーブ園の出口に着いた。次の目的地はあのダムだ。ハーブ園からダム湖への道はハイキングコースになっている。登山客とすれ違いながら、歩いてダム湖の方を目指した。

ダムに着いた。空は晴れ、水は静かで、向こうの山は青かった。ベンチが3つ並んでいて、そのうち一つには2人の登山客が座っていた。「休憩しようか」と私は言い、彼女と一緒にベンチに座った。緊張した。前日にあれだけ頭の中でシミュレートしたとはいえ、いざ告白するとなるとなかなか踏ん切りがつかなかった。私は、隣の2人がベンチを去って2人きりの空間ができたら告白しようと考えた。しかし、彼らは一向にベンチを去りそうな気配を見せなかった。私は、告白の機を伺いながら、ずっと風景を眺めていた。
彼女が、「そろそろ行く?」と私に尋ねた。まずい。今を逃したら、これ以上のチャンスは当分来ない。今、このタイミングで言わなければ。とりあえず、彼女をベンチから立たせるわけにはいかない。「待って。俺、言っておかなければならないことが......」最後まで言えない。
いや、私は何を恐れているのか。彼女だって、今日のデートを楽しんでいた。今までのメッセージからも、今日の誘いを楽しみにしている様子が伝わってきた。私は彼女と趣味が合う。私は垢抜けようと頑張った。それに、無力感に苛まれるあまり今まですっかり忘れていたが、私は地味にちょっと頭がいい。私が彼女と付き合えなくて、他の誰が彼女の恋人になれるというのか。彼女と同年代で、今は関西地方に住んでいて、火力発電所の見学に嬉々として行って、あの東大の卒業生。そんな男、私くらいのものだろう(*2)。彼女の目にも、私は悪くない物件として映っているに違いない。いける。多分、きっと、大丈夫なはずだ。私は自分を奮い立たせ、口を開いた。
「俺は......」色々考えているうちに、彼女の目を見ることを忘れていた。私は慌てて横を向いた。
「君のことが好き。だから俺と付き合ってほしい」
言い切った。
「あと、手紙がある。これも読んでくれ」
私は鞄からラブレターを取り出し、彼女の元へと手渡した。それは、読みやすくて丁寧な、手紙のあるべき姿とは程遠かった。手紙は、彼女に会うまでの電車で読み返したときの私の手に握られて、何重にもしわが寄っていた。過剰な筆圧で書かれた文字たちが、私の昂ぶった心を映し出すかのように、紙の上で激しく暴れていた。
彼女は答えた。「そうなんじゃないかなって、実はちょっと思ってた。勇気を出して言ってくれてありがとう。......嬉しい。でも私、人を好きになるってことが、まだあんまりよく分かってなくて。だからちょっと考えさせて。本当は、すぐにYesかNoか答えられればよかったんだけど。私がまだ子供だから、すぐには言えなくて。ごめんね。手紙は、帰ってから後で読むね。恥ずかしい、から」
返事は保留ということだった。私は答えた。
「いや、全然気にしなくていいよ。ゆっくり考えて。こちらこそ、戸惑わせてしまったようですまない」
「私ずっと、小学生のような気分で生きてきたから......。もう、大人なんだね」
私は私でピュアだったが、彼女も彼女でピュアだった。もう2人とも22歳だった。
木々の枝が風に揺れ、まだ青い葉っぱがはらはらと落ちた。 「じゃあ、行くか」そう言って、大きく伸びをしながら私は立った。私と彼女はダム湖のベンチを後にした(*3)

告白の後は、市街地の方まで降りていった。途中で布引の滝を見た。私と彼女は、まるで何事もなかったかのように、今までと変わらない調子でやりとりをした。そうして16時頃、神戸の市街地まで到着した。夕食にするには、まだ少し早い時間だった。私は、「どうしよう。北野の方にでも行ってみようか」と彼女に尋ねた。ところが、彼女が「ごめん、今日は晩御飯を作らなきゃいけないから、帰るね」と答えたため、そのまま帰ることになった。「今日は会ってくれてありがとう」そう言って駅で彼女と別れた。
私は楽観的だった。私の恋愛感情に気付きながらも今日会ってくれたということは、彼女も私に少なからず好意を持っているのだろう。あの様子なら返事が来るまでに一週間か一ヶ月かはかかるかもしれないが、最終的にはきっとOKしてもらえるはずだ。保留期間のうちにまた食事に誘ってデートしようか。そんなことを考えていた。
帰宅(*4)すると、私はどっと疲れを感じた。私はすぐに眠りに落ちた。

翌日の天気も晴れだった。私は窓からの日差しを受けて目を覚ました。体を動かすと、布団が軽く唇に当たった。私は彼女の頰に口付けすることを想像した。ああ、彼女と恋人になれたら、一体どんな毎日が待っているのだろうか。好き、好き、好き、好き......。私は幸せな空想にふけった。
昼過ぎになった。携帯電話を開くと、彼女からのメッセージが届いていた。まさか、もう返事が来たというのか。私はメッセージを開封した。それは、確かに告白の返事だった。私の目に、ある文字列が映った。

「答えはNoです」

しばらく、何が起こったのか分からなかった。空想世界に取り残された私の心が、その意味の理解を拒んでいた。意識を現実へと呼び戻しながら、私はもう一度文面を読んだ。そこには、私を異性として見ることはできないという旨が記されていた。それが彼女の「素直な気持ち」であり、一晩悩んだ末の「結論」だった。そこに何か覆りそうな余地を見出すことは、私にはできなかった。私は、自分の恋が実らなかったことを理解した。私は、「分かった」と言って、きちんと考えてくれたことへの感謝の言葉を述べた。告白を決意した時点で、これも想定のうちだった。しかし、どういうわけだか、涙が止まらなくなっていた。
私は、彼女と一緒に京都を歩いてみたかった。温泉旅行に行きたかった。工場見学に行きたかった。黒部ダムに行きたかった。街で服の選び合いをしたかった。本の貸し借りをしたかった。お菓子作り(*5)をしたかった。2人で作った料理を、2人で分けて食べたかった。電話を繋ぎっぱなしにして、服でも干しながらとりとめのない会話をしたかった。日常の中の些細な発見を、彼女と共有したかった。彼女に可愛いと言いたかった。彼女の写真を撮りたかった。彼女の顔を、飽きるまで眺めていたかった。それから、それから.......。
私は、今まで恋人がいなくてできなかったこと全部、彼女と一緒にしたかった。色々な場所で、素敵な思い出を数えきれないほどに作りたかった。彼女の手だって握りたかった。恋人繋ぎをしたかった。彼女と抱擁もしたかった。そして、彼女に口付けもしたかった。それら全てが、もう叶うことはないのだった。私は布団の中に閉じこもって、ただひたすらに泣き続けた。私は、失恋の痛みを初めて知った。
私は、彼女の恋人になれないにしても、彼女の友達でいたかった。2回のデートを経て、私は彼女と今までよりも親しくなれたと感じていた。だから、たとえ振られたにしても、今までよりももっと仲の良い友達になれるはずだと、ただ単純に、そう信じていた。私は、これからも友達として会ってよいかと彼女に尋ねた。彼女は、しばらく遠慮させてほしいと答えた。考えてみれば当然だった。そもそも、彼女は断ったことに申し訳なさを覚えているようだから、会ったら恐らく気まずくなる。また、2人きりで会えばそれはデートになってしまう。そのため共通の知人を交えて会う必要が出てくるのだが、私と彼女の間に何が起こったのかを彼らに悟られるわけにはいかない。お互い気を使うことだろう。告白を断るとき、彼女は私のことを「ただの友達」とさえ言ってくれていなかった。そうか、もう当分彼女と会うこともできないのか。私は再び、「分かった」と彼女に答えた。恐らくこれを言っても何も変わりはないだろうと思いつつ、「また気が変わったら連絡してくれ」と一言添えた。メッセージのやりとりはそこで途絶えた。その日は、外が暗くなるまで泣いていた。


さて、あれから時間が経ったためか、私は今ではかなり冷静さを取り戻すことができている。あるいは、文章を書くことで自分の感情を整理するという私の狙いが成功したのかもしれない。未練が残っていないと言えば嘘になるが、頭は次第に恋愛の酔いから醒めつつある。私が今も学問に関する無力感の後遺症に苦しめられていることを思うと、拒絶の返事という形ではっきりとした諦めの理由を与えてくれる恋愛は、学問と比べて随分私に優しくできているようである。
結果的には振られたわけだが、自分が信じる最善の場所とタイミングで告白を実行できたことに関しては高く評価してやってよいと思う。これを先延ばしにしていたら、恐らくもっとつらい結末になっていたに違いない。今でも、あの告白は正しい判断だったと思っている。彼女との関係にしても、嫌われてしまったわけではないはずだ。私は、いつかきっと気まずさを克服して友達関係を結び直せるだろうと信じている。
今回の一件で、自分が相手にまっすぐな恋愛感情を抱くことができる人間だと分かったのも大きな収穫だった。私は長い間恋愛感情が分からなかったし、その後も恋愛に対する屈折した考えのために自分の感情に素直に動くことができなかった。私に恋愛感情を与えてくれるほど素敵な人であった彼女と、私のデッドロック状態を解消してくれた友人に対して、私は深く感謝している。また、これは私の傲慢さなのかもしれないが、今後彼女に誰か他に好きな人ができたとして、もし私の告白がその一つのきっかけになれたとしたら、それは素敵なことだろうと私は思う。私は、彼女のおかげで自分のことをより深く知ることができた。私は彼女に恩がある。だから、私の行動が、「恋愛感情が分からない」と語っていた彼女にとって自分のセクシュアリティを探る糸口となり、彼女が彼女自身を知ることに繋がっていればいいなと祈っているのだ。
おおよそ立ち直ることができたのだが、問題は次の恋をどうするかだ。今回の失敗に関して、本当のところは分からない(*6)が、第一に考えられる原因としては友達としての関係が長期に及んでいたことが挙げられる。初めて出会ってから告白するまで、私はあまりに長い時間を要してしまった。私の恋は、一目惚れからは程遠い、じわじわと積み上がっていくものだった。燃え上がりにくいタイプと言ってもいい。多数派の恋愛パターンとは恐らく異なっているのであろう自分のこの特性を踏まえつつ、いかにして成就に繋げるかが今後の課題となってくる。

私に今後恋人ができるかどうかは分からない。しかし、私は自らの人生を幸福なものにするべく、これからも可能な限り努力を重ねていくつもりである。(「初恋」 終わり)


(*1)私が手で仰ぐようにして嗅ぐと、彼女は笑った。「危険かもしれないから」と言って、彼女も手で仰ぐようにして嗅いだ。
(*2)まあ「おく」がいるのであるが、今はそんなことを言っている場合ではない。大切な友人なので心苦しいところだが、彼のことは一時的に忘れておこう。ref.「2月の終わりに」(Voices Inside My Head)
(*3)結局、隣の2人は最初から最後までずっといた。待っていたらきりがなかった。
(*4)私はGWの間帰省していた。だから、この「帰宅」は実家への帰宅である。なお、親には同性の友人と会うのだと偽っていた。ref. 「服屋の店員」
(*5)ref. 「バレンタイン・チョコクッキー」
(*6)恋に浮かれてTwitterで麻薬麻薬と言いすぎたことが原因という可能性もある。

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