2021年10月1日金曜日
2021年9月24日金曜日
カレーを作るとき鍋底焦げ付きがち問題
「今一人暮らしだよね。自炊してるの?」
「そうですね。時々」
私「何作るん?」
「カレーが多いですね。一回にまとめてたくさん作れますから」
「底のない鍋で作ればいいんじゃないの」
私「無限に落ちながら作るってことですか?」
「無限に落ちることはできないから、落ちるまでに完成させる」
「地球の周回軌道上でカレーを作ればいいのでは」
私「ある意味無限に落ちていることになる」
「カレーを強い磁力で浮かせてマイクロ波で加熱するという手が」
「カレーって磁力で浮くの?」
「水が弱い反磁性を持ってますから、超伝導磁石を作って非常に強い磁場を加えれば浮きますね」
「てことはカレーに鉄粉を入れる必要はないんだ」
「そこは磁場を十分強くしてカレーと超伝導体の間隔をあければ......」
「カレーの焦げだけで鍋を作るのは?」
私「あ、それはすごい!」
「高級店とかでさ、チーズの中で絡めて作るパスタあるじゃん。あんな感じでチーズカレーを作ればいい」
私「柔らかくなったもちがコンロにくっついてべたべたになりますよ」
「吊るせばいいよ。上から」
「具材だけを詰め込んだカレーパンのたねを作って、カレーパンを揚げる工程で中のカレーを完成させる」
「それは面白いな。まあパンは真っ黒になって食べられないだろうけど」
「レトルトカレーを食べた後の袋あるじゃん。洗って乾かした袋に具材を入れて、鍋に立たせて湯煎でカレーを作るっていうのはどうかな」
私「それだ!解決しました。皆様ありがとうございました」
2021年9月22日水曜日
都会と自意識
- アパレルショップ
- テーマパーク
- バー
ちなみに私の年齢は25歳です。どうかよろしくお願いします。
さて、テーマパークも恐ろしい場所だ。広告から読み取れる情報によれば、テーマパークは楽しげな雰囲気で満ちた場所のようだ。園内には固定された表情の着ぐるみが歩き回っており、行き届いた掃除によってゴミ一つないらしい。こうして要素を並べ立ててみると、どうも思想統制の進んだディストピアの一種ではないかという気がしてくる。私のような根暗な人間が足を踏み入れたが最後、陰気なオーラをばら撒くなと石を投げられ排斥されるのではないだろうか。最悪歩くゴミとして焼却処分される末路も有り得る。「テーマパークに来たみたいだぜ テンション上がるなぁ〜」という有名なネットミームがあるが、テーマパークに来てテンションが上がる人の気が知れない。
これらの場所に関して、「ブログのネタとして面白そうだから行って記事書いて来てよ」といったことも言われた。とんでもない。放送事故を通り越して動物虐待である。
2021年9月21日火曜日
放送禁止用語
私と同じ高校出身で、私と同様に東大に来た後輩がいる。
後輩「前高校に行ったとき、生徒の前で何か話せって橘先生に言われたんですよ」
私「へー。俺も卒業してから高校何回か行ったけど、そんなん言われたことないわ。俺だって東大生やのに」
後輩「教室の前に立たされて、「何でもいいから話せ」って。普通に東大の勉強の話をしました」
私「何でもええの?放送禁止用語とか言ってもええんかな」
後輩「そんなんだから(生徒の前で話せと)言われないんじゃないですか」
飲食店の中で「ウンチ」だの「オシッコ」だの言わずに、「放送禁止用語」という言葉をチョイスしたところは我ながら偉いと思う。
2021年9月5日日曜日
夢の中の遊園地
昨日、夢の中で4,5人の友達と一緒に遊園地に行った。
観覧車に乗ると、だんだん観覧車全体が傾いて水平にぐるぐるぐるぐる回り始めた。観覧車から降りて次のアトラクションに行こうとしたが、私だけ出口を間違えてしまい、スタッフの老婆が仕組んだトラップによって左腕をレーザーで焼かれてしまった。そして、その左腕の傷が膨らんで、あれよあれよと言っているうちに、たちまち原子力発電所が建ってしまった。敦賀原発だった。私は普段から原発の電気を使っているし、原発の安価な電気で産業が振興されることによる間接的なメリットも受けている。だから、直ちに原発をゼロにせよとは、私は正直言えない。けれども、自分の腕に原子力発電所があるのはやっぱり嫌だ。常日頃原発の恩恵を享受しておいていざ自分の身近なところに原発が建ったらこの態度かと思われるかもしれないが、流石に嫌だ。根本的に邪魔だし、放射性廃棄物の処理の仕方も分からない。
こういったことを老婆に伝えたところ、日光を浴びれば自然に消滅するだろうと言われた。そこで私はアトラクションめぐりから離脱して日向ぼっこを始めた。
少しだけ縮んだものの、敦賀原発はなかなか消滅しそうにない。これからどうしようと悩んでいると、目が覚めた。ワクチンの副反応で微熱が出ていた。
2021年8月4日水曜日
政治の失敗は国民の失敗である
東京オリンピック開催の裏側で、新型コロナウイルスの感染が拡大している。政府が矛盾したメッセージを発し続けた結果、緊急事態宣言の効果は限定的なものに留まっている。今夏にオリンピックを開催すること自体には賛否両論あったものの、少なくとも今の日本政府にとってオリンピックの開催と市中での感染拡大防止の両立が無謀だったことに関してはほとんど異論がないだろう。
今秋までには衆院選が実施される。我々国民は、自公政権を選択し続けることの意味を今一度問い直さねばならない。もちろん、政権交代を起こせば全ては解決するなどと言うつもりはない。私が言いたいのは、何々党に投票しろだとか、誰それを応援しろだとか、そういった単純な話ではない。
積極的に投票したい相手がいない、といった意見をしばしば耳にする。自民党は自民党で問題を感じる一方で、野党は野党で弱くて頼りない。そこでとりあえずで自民党に入れておくわけだ。
私は、これはこれで理解できる意見だと思う。現在の野党が多くの問題を抱えていることは私も同意するところである。しかし、これで終わってよいのだろうか。そもそも、どこにも積極的に投票したいと思えないこの状況が異常ではないか。日本の人口が1億人以上あって、賢い政策を実行できる能力を持った人が一人もいないとは思えない。要するに、賢人は政治家になろうとしない、なったとしても大して評価されない、という現状がある。賢人にとって政治家が魅力的な仕事ではなくなっているのだ。
日本は国民主権の国であるから、いわば国民が国会議員の上司としての役割を担っている。政治の失敗は、政治家の失敗である以前に国民の失敗である。国民が政治家を選び、評価するのに失敗したから政治の失敗が起こるのだ。政府の失敗を目にしている今の我々は、政府を批判するのと同時に自分自身をも批判する必要があるはずだ。
選挙で何党に投票するのかという個々人の選択結果自体は、実はさして重要ではない。むしろ重要なのは、政治に関する情報を集め、吟味し、投票先を考えるというプロセスの部分だ。政治家を評価できるのは有権者だけだ。政治家によりふさわしい人物を政治の場に惹きつけ、彼ら彼女らになるべく正当な評価と報酬を与えるために投票するのだ。投票したい人がいない、で済ませてしまうのは思考停止ではないか。
政治の失敗は、単に政治家の失敗として人ごとのように片付けてよい問題ではない。国民は、政治の失敗を自らの問題として捉えるべきだ。政治家は選挙で選ばれるだけの存在であり、言ってみれば所詮国民の傀儡に過ぎない。日本の政治の問題は日本国民が解決する以外に手立てがない。
現在、政治参画に関する主体性の欠如が世間にうっすらと広がっているように感じられる。文書主義の軽視や国会の軽視といった国政の風潮、そしてそれを容認するかのような世論の反応を見ていると、この主体性の欠如が民主主義を根元から蝕み、やがては形骸化させていくのではないかと憂慮してならない。
2021年7月20日火曜日
東大生に男子が多いのはオシッコが原因かもしれない
昨夜、ふと思った。
東大生に男子が多いのはオシッコが原因かもしれない。
東大生の女性比率はおよそ2割だ。日本最難関とされる大学の学生の男女比がこのように偏っていることは大きな問題であるとされ、その是正に向けて女子学生向けの家賃補助や女子高校生向けの説明会など様々な施策が行われている。しかし、果たしてこれで十分なのだろうか?
現在、東大生の偏った男女比は家族が娘の社会進出を好まないなどの社会的要因によるものだと説明されることが多い。だが、この現象は社会的な要因が全てだとは考えにくい。男女の身体の構造的な違いも多分に影響しているはずだ。そうした違いの代表的な例がオシッコである。男性は女性と比べてより長い尿道を持つために、オシッコをより多く、より長く溜めることができる。東大生の男女比の問題を考えるにあたって、この事実を無視することはできないのではないか。
オシッコを溜める能力の高さは試験にあたって有利に働く。東大の入試問題は、言うまでもなく難しい。一問一問の難しさもさることながら、時間に対して問題量が多く、高い処理能力が要求される。受験生にとって解答時間は1分1秒でも惜しいものだが、東大の場合特にそれが顕著だ。東大受験生は試験中にトイレに行くための時間を持たない。
東大が課す難問は、受験生に対して多大な精神的負荷を与える。緊張するとオシッコをしたくなるのは誰もが経験的に知ることだ。受験生は究極の選択を迫られる。
オシッコをするか、しないかだ。
とはいえ、本当に試験中に席を立ってオシッコに行く人は少ない。恐らくみりあくらいのものだ。私の計算によれば、受験生の9割は試験中にオシッコを我慢している。しかし、オモラシの瀬戸際に立つ人間に、数学の難問が解けるだろうか?解けないに決まっている。膀胱も頭もオシッコでいっぱいの人が知性を有するわけがない。これは、胃袋を食べ物で満たすと頭の回転が鈍くなるのとほぼ同じ原理のことである。
この理論的考察を検証するためには、次のような実験をすればよい。高校生の集団を3つのグループにわける。それぞれA, B, Cとしよう。Aグループの生徒には普段通りに試験を解いてもらう。Bグループの生徒には一人一枚オムツを与え、「いつでもオシッコを漏らしてよい」と伝えた上で試験を解いてもらう。最後のCグループの生徒に関しては、パンツをカバンにしまってパンツを履かずに試験を解くようにしてもらう。このようにして同一内容の試験を解かせ、各グループ上位10%の生徒について点数に性差があるかを比較する。
ノーパンで試験に臨む人間が賢いとは到底思えないので、おそらくCグループの得点が一番低くなるだろう。だが、Cグループは実験に特に関係がないのでおいておく。問題はAとBの結果だ。もしBがAより高得点であり、かつ男女の得点差も縮まっていれば、私の説は正しいと立証されたことになる。
以上に述べたように、オシッコを溜める能力と入試の得点には深い関係があると予想される。点数の差は尿道の差だ。尿道は長いに越したことはない。長いものには巻かれろである。長芋にはまぐろである。一方で、オシッコをあまり溜めていると膀胱炎になるともいう。膀胱炎といえば、膀胱炎と等高線と孟浩然は語感が似ている。つまり、ゆめゆめミミズにオシッコをかけてはならないということだ。ミミズは漢字で蚯蚓と書く。虫に丘、虫に引でミミズである。ミミズは虫の世界のおかっぴきなのだろうか。おかっぴきがいた江戸時代では、オシッコは集められて肥料として役立てられていたそうだ。
オシッコも奥が深い。